宋史卷四百二十二 列傳第一百八十一 應孟明

経歴と地方官

  • 應孟明、字は仲実。婺州永康の人。太学に遊学し隆興元年(1163年)進士。教官試験に合格し臨安府教授、浙東安撫司幹官、樂平県丞を歴任。侍御史葛邲・監察御史王藺の推薦で詳定一司勅令所刪定官となり、輪対で南北通好の中でも辺境の備えを常に緩めるべきでないと訴え、貪残苛酷の吏を除き、賢士の登用と兼聴の必要を説いた。孝宗は「朕は昼夜戒懼し退朝の暇にも他の好みを持たない」と応えた。監司の貪吏庇護・薦挙の私情を厳しく禁ずるよう乞い、帝は久しく嘉賞した。
  • ある日、宰相の擬進に対し帝が二人の名を挙げて「なぜこれを及ばさぬのか」と問うた一人が孟明であった。大理寺丞に拝され、故大将李顕忠の子の家僮溺死事件で誣告された冤罪を明らかにした。福建提挙常平の陛辞で帝は「卿の民への愛と贓吏への憎しみを知る」と述べ、当世の人材を問うと「才があっても学がなければ刻薄に流れる、教化を明らかにすれば成就は倍する」と答えた。

提刑・地方統治

  • 浙東提点刑獄、鄉部を理由に江東提点刑獄に転じ、広西帥の選任にあたり帝は「孟明に易る者はない」として自ら手筆を賜った。直祕閣知静江府兼広西経略安撫となり、官による塩の運搬を民に強要していた弊害を条奏し詔で改められた。禁卒朱興の反乱を将を遣わして鎮圧。
  • 光宗即位後、浙西提点刑獄、吏部員外郎、左司、右司、中書門下省検正諸房公事を歴任。寧宗即位後、太府卿兼吏部侍郎、慶元初に権吏部侍郎で卒した。儒学で身を起こし人主の知遇を受けたが官職は倖進せず、韓侂胄が密使を遣わして諫官の地位を与える見返りに趙汝愚を誣告させようとした際、これを拒み士論に重んじられた。