経歴と和議反対の上疏
- 許忻、拱州の人。宣和三年(1121年)進士。高宗の時、吏部員外郎として引見の詔を受けた。当時、金国使者張通古が館に滞在しており、忻は上疏して和議の不可を極論した。
- 疏の要旨:陛下は祖宗陵寝の廃祀・徽宗顕肅皇后の梓宮が遠地にあること・淵聖皇帝と皇族の帰還が期待できないことを理由に和議を求めているが、金人は靖康の初めにも講和を偽り、肅王を大河まで送ると約しながら北方に連行し、河朔千里を焼き払い億万の死者を出した。淵聖皇帝も金人の盟が信じられぬと詔していた。都が陥落した後も講和と称して淵聖・徽宗を郊外に誘い出し、公卿大臣を拘束の上で偽帝張邦昌を立てて去った――これが金人の「講和」の実態であると詳述した。
- 王倫の説に基づき金の詔諭を受ければ、外夷の臣妾となり、大臣は変えられ諸将は分割され要求は際限なく続くと警告。祖宗陵寝の恨みと不共戴天の讎を強調し、詔を受け入れれば土地を先んじて拱手で奉ずることになると論じた。従来の外夷への対応(皮幣・珠玉・犬馬の贈与)と異なり詔を受けることの異常さを訴え、幡然と改慮し人心を収め、王倫を誅して天下の疑いを解くべきと結んだ。
- 疏は上奏されたが省みられず、忻はその後外補を願い出て荆湖南路転運判官に任じられ、撫州に謫居し、邵陽知事に起用されて卒した。