宋史卷四百二十 列傳第一百七十九 馬天驥

馬天驥(字徳夫)

  • 衢州の人。紹定二年(1229年)進士、簽書領南判官庁公事に補せられ、秘書省正字兼沂靖恵王府教授に転じ、秘書省校書郎に転じ著作佐郎に昇進、輪対し司馬光の五規の名を借りて時弊を条陳、言葉は切直であった。考功郎官に転じ、入対し周世宗が天下が四分五裂した後、一念振刷(奮起)してなお弱を転じて強となしたことを述べ、陛下にも致すことのできる資質があり、乗ずべき勢いも今のうちにあると論じた。秘書監に転じ直秘閣として吉州知事、宗正少卿に転じ秘閣修撰として紹興府知事浙東安撫司公事主管兼提挙常平、権兵部侍郎に転じ沿海制置使を授かり慶元府知事に差し、池州知事に改め江東提挙常平を兼ね、広東知事に改め広東経略安撫使を兼ね、宝祐四年(1256年)礼部侍郎に転じ直学士院兼侍読兼国子祭酒を兼ね、端明殿学士・同簽書枢密院事を拝命、信安郡侯に封ぜられ、五年殿中侍御史朱熠・右正言戴慶炣・監察御史呉衍・翁応弼らの弾劾で罷免、旧職洞霄宮提挙、景定元年(1260年)衢州知事、兵部侍郎章鑑の弾劾で罷免、詔により旧職に依り祠禄、福州知事福建安撫使に起用され、職事が修まったことにより大学士に進み平江府知事に改め、さらに慶元府知事兼沿海制置使に改め洞霄宮提挙、職を褫われ祠を罷免、咸淳三年(1267年)執政の恩数を追奪され信州に送り居住、四年放免され自便を許され、のち自宅で死去。