宋史卷四百二十 列傳第一百七十九 李曽伯

李曾伯(字長孺)

  • 覃懐の人、のち嘉興に居住。濠州通判を歴任、軍器監主簿に転じ添差通判鄂州兼沿江制置副使司主管機宜文字、度支郎官に転じ左司郎官を授かり淮西総領、まもなく右司郎官に転じ太府少卿兼左司郎官兼勅令所刪修官、太府卿に転じ淮東制置使兼淮西制置使、軍事は便宜に行うよう詔があり、曾伯は天心に応え地勢を重んじ人謀を協せる三事を上疏し、辺餉は広く積むべきこと、将材は素より蓄えるべきこと、賞は精であるべきこと、戦士は恤むべきことを述べ、さらに淮の水軍が戒めるべき点・湖の険阻な地の治めるべき点を具申した。華文閣待制を加えさらに宝章閣直学士を加え権兵部尚書に進む。淳祐六年(1246年)正月朔、日食があり、曾伯は詔に応じ先朝の天象による辺備の警戒・帥材の登用の故事を歴陳、早く任地の交代を願い田里への帰還を請い、また泗州西城の修浚を請う。煥章閣学士を加え、言者が相次いで弾劾し罷免。
  • 九年(1249年)旧職静江府知事広西経略安撫使兼広西転運使、辺境防備の五事を陳べ、徽猷閣学士に進み京湖安撫制置使知江陵府兼湖広総領兼京湖屯田使、龍図閣学士に進み、襄陽新復の地は城池は修浚されたが田野が未だ開かれず室廬も草創のままで市井も豊かになっていないとし三年間の租税免除を請い、詔はこれに従った。端明殿学士兼夔路策応東閣を加え、資政殿学士・四川制置使として執政の恩例を与えられ、まもなく四川宣撫使を授かり特に同進士出身を賜り、召され赴闕し大学士を加え福州知事兼福建安撫使を授かるも辞退し大学士洞霄宮提挙として湖南安撫大使兼知潭州に起用され広南の節度を兼ね静江に治所を移す。開慶元年(1259年)観文殿学士に進み、諫議大夫沈炎らの弾劾で罷免、景定五年(1264年)慶元府知事兼沿海制置使に起用され、咸淳元年(1265年)殿中侍御史陳宗礼の弾劾で職を削られる。徳祐元年(1275年)元の官を追復。曾伯は当初賈似道と共に閫帥であり、辺境の事は言うべきことをすべて言ったが、似道はついにこれを嫉んでその才を尽くさせなかったという。