應㒡(字之道)
- 慶元府昌国の人。刻志して学に励み、嘉定十六年(1223年)南省試第一、進士に挙げられ臨江軍教授、国子学録兼荘文府教授として召され、秘書郎に転じ蚤く太子を建てるべきと請う。入対し帝は星変について問い、㒡は実徳を修めて天戒に応えるべきと請い、帝は州県の貪風について問うと、㒡は「貪黷は殉色から起こる、成湯が官刑を制した際まず巫風・淫風の者を有位から除いたのはそれゆえだ」と答えた。帝は蔵書について問うと、㒡は先儒の経注史書を訪ね、程迴・張根の著書はみな世教に益があると請い、帝はこれを善とした。
- 秘書省著作佐郎兼権尚左郎官兼翰林権直に転じ、さらに著作郎に転じなお兼職、言により免職、淳祐二年(1242年)復官し奉祠、宗正寺丞兼権礼部郎官兼国史編修実録検討に転じ、言により免職し台州知事に差し、召され礼部郎官・崇政殿説書を兼ね、秘書少監に転じなお兼職兼権直学士院、また起居舎人に転じ権兵部侍郎、時暫兼権吏部侍郎兼直学士院、帝がある夕方㒡を召して麻(詔書)を起草させると、夜四更までに五制がすべて完成し、帝はその才を竒とした。吏部侍郎に転じなお兼職、翰林学士兼中書舎人に進み、八年(1248年)同知枢密院事兼参知政事を授かり、九年参知政事を拝命、臨海郡侯に封ぜられ、田里への帰還を願い資政殿学士・平江府知事・洞霄宮提挙、宝祐三年(1255年)殿中侍御史丁大全の弾劾で罷免、まもなく死去。徳祐元年(1275年)詔により元の官職を復し致仕。