地方官歴任と長大な上疏
- 福州の人。嘉定七年(1214年)進士、戸部架閣主管を歴任、国子正に転じ臨江軍知事、飢饉に振荒(救済)の法を整え、国子監丞に転じ信陽軍知事、池州知事に改め江東提挙を権知で兼ね、久しくして直秘閣・江東提挙常平としてなお池州知事を兼ねる。端平三年(1236年)召され闕下に至り尚右郎官に転じ、まもなく権左司郎官を兼ね右司郎官に転じ、将作監試兼右司郎中、鎮江・建寧府転般倉と平江府百万倉の提領を兼ね措置官田の提領を兼ね、直宝謨閣に進み枢密副都承旨兼左司郎中に進む。
- 入対し、今天下の大勢は江河の決壊のように日ごとに悪化する一方でこれを引き戻せない、当初は搢紳(士大夫)の論はみな太平の期を待てると言い合っていたが、まもなく治乱安危の制を語るようになり、さらにまもなく治安を置いて危乱を直接語るようになり、さらにまもなく危乱すら置いて亡を語るようになった。ああ、亡を語るのはまだ亡があると知っているということだ、今は亡すら語らなくなった。人主の患いはこの危亡の中にいながらそれを知らぬことより大きいものはなく、人臣の罪は危亡を知りながらそれを言わぬことより大きいものはない。陛下の親政は五年になるが、盛徳大業がなお天下に著れず、天下の謗議を招くのはなぜかと問い、逸欲の害を議すれば天下は陛下を商紂・周幽のような人主と見なし、戚宦近習の政への干渉を議すれば天下は朝廷を漢の恭顕・許史・武韋・仇魚のような朝廷と見なし、姦儔佞朋の誤国を議すれば天下は漢の党錮・元祐の党籍の君子のようなことになると懼れる、これらはみな前古の危亡の轍を踏むものであり、忠臣がこれを懇切に言い志士がこれを憤激して和すのに、陛下は毎日朝に臨み儒者に親しみ辞色を修めても天下の議論を弭めることができず、言う者はこれを執って改めず聴く者はこれを厭って煩を憚らない、このため厭が疑に転じ疑が忿に増し忿が愎に極まれば、言を罪し諫を黜ける意が陛下の胸中に潜み、己に逆らう者はみな逐うべき人とされてしまうと論じた。
- 中人(側近)の性は利害が一身から出ないものはなく、ほとんどが厓を破り角を絶って陛下の好むところに阿ろうとし、やや名義を畏れる者は羞を包み黙して進退に憂いを抱くようになり、顧恋のない者はみな袂を払って遠ざかり、王の朝に立つことを願わなくなると論じた。陛下は自ら身を省み、「私の行いに屋漏(人目のない場所)でも見られている恥はないか」と問うべきであり、ただ嬖昵(寵愛する者)の多さや選択がやまず排当(取り巻き)の噂が絶えないのを見て、精神が内に守られ血気が順軌にあるとは言えない。陛下はまた宮閫の内を省み、「私の左右近属に微に因って入り形に縁って出て、意のままに狎れ信じ猜覚しない者はいないか」と問うべきであり、内降(私的な人事)や干請がしばしば至り、有司の裏言(密告)や除臣(任命)がすべて実の人選であるとは言い切れず、浸潤の讒言が行われず邪逕が既に塞がれているとは言えない。陛下はまた三省(朝廷政事)を省み、「私の諸臣に讒説殄行(讒言と悪行)・震驚朕師(帝の側近を脅かす)・悪直醜正(正直を憎む)・側言改度(讒言で方針を変えさせる)の者はいないか」と問うべきであり、ただ剛方峭直の士が昔進められたが今その所在を知らず、柔佞闒茸(卑屈で愚劣)の徒がどこから来たのかわからぬまま集まっているのを見て、これで国中みな忠臣で聖朝に欠事なしとは言えないと論じた。
- 陛下の好悪用捨には人が言を寄せる由縁のないものはないのに、人言が来るとまた推して受けず、平日の際遇信任を受けた者が陛下のためにこの謗を分けてくれるかと考えれば、そのようなことはない。陛下が誠にその失を天下に布き、曲げてこれを回護せず、人言の許さないものを一朝赫然として尽く去り、蠧根を悉く抜き孽種を残さず、日月のように改め風雷のように迅速にすれば、天下の謗は改めずして自ら息むだろう、陛下は何を憚り何を疑ってこれを行わないのかと論じ、さらに辺事についても極言し事情を尽くした。
拝相前後の歴任と晩年
- 直宝謨閣として婺州知事、秘書少監に転じ司農卿を拝命、再び秘書少監に戻り太常少卿兼中書門下検正諸房公事に進み、起居舎人に転じ起居郎兼権刑部侍郎に昇進、臣僚の弾劾で罷免、集英殿修撰・太平興国宮提挙として再び婺州知事に起用されるも辞退し旧の祠禄に戻る。淳祐四年(1244年)召され闕に至り権吏部侍郎兼権中書舎人を授かり、まもなく吏部侍郎としてなお権中書舎人を兼ね侍読を兼ね、時暫兼権侍右侍郎兼同修国史実録院同修撰、権刑部尚書、まもなく真の官、七年端明殿学士・簽書枢密院事兼権参知政事、八年参知政事を拝命、監察御史陳□(底本欠字)の弾劾で罷免、資政殿学士・建寧府知事、宝祐元年(1253年)死去。