李性傳(字成之)
- 宗正寺主簿李舜臣の子。嘉定四年(1211年)進士に挙げられ、行在諸軍審計事に幹弁、対面に際し道学を崇尚するとの評判があるがその実は何かと問われ、性伝は「陛下の格物致知こそ治世の本にある」と答えた。武学博士に転じ太常博士・諸王宮大小学校授を兼ね、太常寺丞兼権工部郎中兼権都官郎官に昇り起居舎人兼侍講に転じ、東周以後諸侯卿大夫の服喪の期間が既に短縮されてきた歴史(秦漢の淺促、孝文帝の三十六日制、東漢以後の二十七日制)を論じ、晋の武帝・魏の孝文帝のみが古の制度に復そうとしたが群臣に阻まれ、孝宗のみが三年の喪を通したことを陛下も見習うべきと疏言、史官に付し天下に徳化を及ぼすべきと請うた。
- 起居郎兼国史編修実録検討に転じ権刑部侍郎、礼部侍郎に進み臣僚の弾劾で罷免、宝章閣待制として饒州知事、寧国府知事に改め再び饒州知事、再び言により罷免、兵部侍郎兼侍読兼同修国史兼実録院同修撰として召され侍読を兼ね権兵部尚書、仁皇訓典を進読し帝学を読むことを乞い許され、権吏部尚書、臣僚が父舜臣の廟封爵の事を論じ落職・太平興国宮提挙、淳祐四年(1244年)権礼部尚書兼給事中兼同修国史実録院同修撰兼侍読、五年端明殿学士・簽書枢密院事兼権参知政事、のち同知枢密院事、まもなく落職して郡に出され、十二年(1252年)資政殿大学士・洞霄宮提挙、宝祐二年(1254年)依旧職万寿観提挙兼侍読、観文殿学士として致仕、死去、特に少保を贈られた。