宋史卷四百十八 列傳第一百七十七 王爚

地方官歴任と拝相

  • 紹興新昌の人。嘉定十三年(1220年)進士第、常熟県知事、紹定四年(1231年)江淮制置司の辟で泰州通判、五年滁州知事、端平元年(1234年)瑞州知事、嘉熙元年(1237年)左蔵東西庫提轄兼提轄封椿下庫、二年籍田令兼督視幹弁公事、淳祐二年(1242年)監三省枢密院門に転じ免職を願い許され、四年再任、五年太府寺丞・秘書丞・戸部郎官・淮西総領主管右曹、六年尚書左司員外郎に進み対面を賜り祠禄を願うも許されず、七年秘書少監に転じるも侍御史周坦の弾劾で福建提点刑獄に降ろされ温州知事、十年寧国府知事、大府卿に転じる。
  • 宝祐元年(1253年)国史編修実録検討・権兵部侍郎を兼ね司農卿試・中書門下省検正諸房公事を兼ね、大臣が乱を憂い治を思い、危を懼れ安を図り、哀恫警省し徳を修め政を行い群陰の勢いを抑え微陽の根本を保護すべきと疏言。右文殿修撰・太平興国宮提挙を経て五年京湖宣撫大使趙葵の辟で判官、開慶元年(1259年)召され集英殿修撰・枢密都承旨・権吏部侍郎、景定元年(1260年)同修国史実録院同修撰兼侍読を兼ね、真の侍郎に転じ太子左庶子を兼ね極言正論、太子はこれを聞いて喜び帝も甚だ喜んだ。二年礼部尚書に転じ権吏部尚書、龍図閣学士を加え平江府知事淮浙発運使、五年召され端明殿学士・佑神観提挙兼侍読、召され咸淳元年(1265年)二月簽書枢密院事を拝命、閏月同知枢密院事兼権参知政事、二年疾で祠禄を願うも許されず、田里への帰還も許されず、帝は尚医を遣わし食を賜り、二度帰郷を願うも許されなかった。

度宗末年の重責

  • 二年参知政事、三年知枢密院事兼参知政事、皇太子を立てる際食邑を加え三度辞免を願うも許されず、休假を願うも許されず、最後に祠禄を願い資政殿学士・慶元府知事兼沿海制置使を授かる。四度免職を願うも許されず、七年台州の申請により上蔡書院山主に充てるとの詔が下り、八年観文殿学士・万寿宮提挙兼侍読を加え、詔により刑部郎官董樸を遣わしこれを起用しようとしたが四度上疏して辞退、ようやく従った。十年致仕を願うも許されず、十一月爚を左丞相、章鑑を右丞相とし、ともに枢密使を兼ねる。まもなく爚に特進・食邑加増を授けるも致仕を二度願うも許されなかった。
  • 徳祐元年(1275年)二度経筵への転任を願い、再び旧職での京祠侍読を願うも許されず、右丞相章鑑・参知政事陳宜中が爚を留め人心を鎮めるべきと奏し許可。爚は二度省院の公牘に署名しないことを願うも許されず、また将臣を先に罷斥し自らは死をもって国に報いることを誓い、宣撫招討等の職を仮に与えられれば忠義を招募し興復を図ると乞うたが、章鑑・陳宜中はさらに爚が単車で江を渡り既に蕭山に至ったとし、中使を遣わして戻し治事させるよう奏し、観文殿大学士・浙西江東路宣撫招討大使に任じられ京に司を置き諮問に備えた。大使の職名を解くことを願うも許されず、少保・左丞相兼枢密使に進み、都督諸路軍馬を加えることを何度も辞退したがすべて許されなかった。

誤国への上奏と陳宜中との不和

  • 爚は上奏し、今日天下が大いに壊れたのはひとえに私が賞罰の道理を塞いだためであり、これを救うにはその壊れた由来に立ち返るべきで、大いに賞罰を明らかにし天理に合致させれば人心は興起し天下事もなお為すべきことがあると論じ、賈似道の誤国喪師の罪を挙げ、ここに至って詔が下り似道を不忠不孝として切責した。六月庚子朔、日食があり、爚は日食が尽きず白昼が数刻晦冥した、陰盛陽微の災異はこれより大きいものはないとし、首相として陰陽を治め万物を遂げるべき職にありながら邪気を消せず生民を塗炭から救えないのは自らの咎であると、罷黜を願う上疏をしたが許されず、金紫光禄大夫に降授されるに留まった。降官を辞し罷黜を願うもまた許されず、まもなく平章軍国重事に進んだが辞退が許されず、陳宜中か留夢炎の出督を求め、自らも老いて能なしとしながらも死をもって封疆に効することは辞さないと述べた。
  • 三省が集議し平章事の罷免を願うも許されず、京学生が上書し宜中を誹謗、宜中も上疏して致仕を願う。もともと宜中の在任中は政事の多くが爚に知らされておらず、京学の議論は実は爚が嗾したものだとの噂もあった。七月壬辰、詔で給舎の奏が三度入り、爚と宜中が共処できないこと、また爚が近ごろ平章の免職と経筵侍講を願う上奏の辞気が穏やかでなかったことが人の言う通りであったとされ、爚は平章を罷免され依前少保・観文殿大学士・醴泉観使を特授された。爚は清廉剛勁な人柄で、似道が天台に帰って母を葬った際新昌を通ったが爚は面会しなかった。のち元老として入相し国勢の危亡の際、天下が期待を寄せた人物であったが、結局宜中と不協和音を来して去った。