宋史卷四百十六 列傳第一百七十五 冷應澂

若年と亷能の評判

  • 冷應澂は字を公定、隆興分寧の人。宝慶元年(1225年)進士に及第、廬陵主簿として廉能の誉れ高く「廬陵の清主簿の下で裁いてほしい」と訴える者が多かった。楊長孺に見出され、静江府司録参軍として獄を平恕に治め、転運使范応鈴の推薦を受けた。万載県知事として学舎を整備し、飢饉時には棄児を民に養わせ実父母の追及を禁じて多くの命を救った。葉夢得がその善政を記録し隣邑にまで及ぼした。

徳慶府の乱の鎮定

  • 通判道州、行在榷貨務、登聞鼓検院を歴任し、景定元年(1260年)江上の督餉を経て徳慶府知事として、前任者の失政による峒獠の反乱を、着任前に檄文で「反省すれば禍を転じて福となせる」と諭し、動揺を静めた後、不意打ちで首謀者を捕らえて他は帰農させた。監司雷宜中は当初応澂が援兵で鎮圧すると予想していたが実際は撫恤で解決したことに感服した。租税徴収の遅延に「先に納めた者は減免、遅れれば減免なし」との策で解決し、綱運・軍餉の未払いを整理した。

財政・軍備の整備

  • 抑配(強制割当)や塩法の是正、紙幣の折銀綱化を献策し、提挙常平兼転運使として不法な守令10余人を弾劾。広州知事広南東路経略安撫使を歴任し、5司の繁務を分掌して処理、「官事を治めるは家事のごとく、官物を惜しむは私物のごとく」と説いた。襄樊包囲の報を聞くと日々器械を整え財粟を蓄え、後にその備えが役立った。刑罰には慎重で、勢家であっても法を曲げず、後に家で卒した。