宋史卷四百十五 列傳第一百七十四 傅伯成

出自と地方官

  • 傅伯成は字を景初、吏部員外郎察の孫。朱熹に学び、隆興元年(1163年)進士に及第、連江尉、明州教授(若すぎるとの評を受けたが日々諸生と学を論じ多くの人材を育てた)、閩清県知事、連江県知事を歴任。連江では東湖の灌漑田2千余頃を守る堤が壊れた際、下流の南港に新たに堤を築いて民を利した。慶元初年、将作監、太府寺丞に召され、呂祖倹の貶謫や朱熹の学を「偽学」と目すべきでないと論じ、朋党の弊は君主の好悪の偏りに起因すると説いたため、意見が容れられず漳州知事となった。

漳州での善政と権臣批判

  • 朱熹の遺意を継いで恵民局を設け、機鬼の俗を改めた。漳州南門から漳浦まで橋35を架け、道千二百丈を整備。工部侍郎に転じた際、権臣(韓侂胄)が北伐を密議していることを察知し「中興80年、外見は堅固でも罅漏は多く、僥倖に古人の難事を図るのは危うい」と諫めた。丞相府の火災の際、同僚が偶然と慰めるなか、伯成は「天意である」と正色して失民心・軍政の乱れ・辺境開戦の三事を陳べた。右司郎官として権幸の私謁を峻拒し、湖広総領として金の投降者受け入れに反対、御史中丞鄧友龍の弾劾で罷免された。

対金政策と晩年の諫言

  • 嘉定元年(1208年)召対し、和議成立後も戦守の備えを怠らぬよう説いた。戸部侍郎として、史彌遠拝相の麻詞に「昆命元亀」の語があったことを福建帥倪思が不当と論じて罷免された際、その処分の重さを諫めた。李璧の謫居についても、韓侂胄誅殺の功があったのに旧罪で罰されるのは不当と論じた。彌遠と錢象祖に党争を戒める書を送り、左諫議大夫として13の上疏をすべて軍国の大義に関わるものとした。彌遠が彼を要職に誘っても固辞した。
  • 権吏部侍郎、集英殿修撰知建康府として蔡元定の冤を雪ぎ、鎮江府知事として飢民を救済し、焦山・圌山の防備配置を改善、海賊を摘発した。嘉定8年(1215年)召に応じず病を理由に致仕。理宗即位後も再三召され寶謨閣直学士、寶文閣学士を歴任。大理評事胡夢昱が言事により貶謫された際、老いてなお抗疏し、韓愈が仏教批判で潮州に流された故事を引いて君臣関係の在り方を諫めた。龍図閣学士に至り、床上で朝服を着て遺言を残し84歳で卒去。開府儀同三司を追贈、端平3年(1236年)忠簡の諡を賜った。