宋史卷四百十四 列傳第一百七十三 馬廷鸞
馬廷鸞は字を翔仲、饒州楽平の人。貧を耐えて学問に励み、淳祐7年(1247年)進士に及第した。董宋臣ら佞臣の弄権を試策で批判して名を挙げ、賈似道の専権下でも媚びず右丞相兼枢密使に至った。度宗に辺事の実情を訴えて涙ながらに辞任し、瀛国公即位後は召しに応じなかった。
出自と若年
- 馬廷鸞は字を翔仲、饒州楽平の人。灼の子で伯父灼の兄光の後を継ぎ、貧を耐えて学問に励んだ。淳祐7年(1247年)進士に及第、池州教授、太学録、館職試などを経て、外戚謝堂・厲文翁、内侍盧允升・董宋臣の専権を批判する策を試策で述べた。丁大全が接近を図ったが動じず、王持垕を通じた密告工作にも屈せず、監察御史朱熠の弾劾で董宋臣は罷免された。この一件で廷鸞の名は天下に重んじられた。
朝廷での言論活動
- 開慶元年(1259年)呉潜の推挙で校書郎となり、景定元年(1260年)丁大全一党の排斥に加わった。賈似道が権勢を振るう中でも親しまず、東南の国是について輪対で論じた。貢挙の弊害是正、荒政における租税免除などを献策し、軍器監兼左司、太子右諭徳、国子司業を歴任。翰林権直、起居舎人兼太子右庶子を経て国史院編修官・実録院検討官として災異を謹んで記すべきと述べた。董宋臣の再用に反対する上奏を行い、20人の士を推薦した。
宰相への道と度宗擁立
- 中書舎人として程奎・王之淵・朱熠らの不当な任用に反対し詞頭を繰り返し還した。彗星出現に際し天人の際を論じ、礼部侍郎、理宗の遺詔と度宗の登極詔を起草した。咸淳元年(1265年)端明殿学士簽書枢密院事、同知枢密院事を経て、寛大な政治と仁厚を説いた。参知政事、同知枢密院事を経て右丞相兼枢密使に至った。
賈似道との対立と晩年
- 趙葵が辺事について「老臣は兵間の事情に通じている、朝廷は慎重に」と諫めたところ似道が色を作して「これは三京の事を敗した者の失言」と非難した一件で、廷鸞は法制の厳格さや功賞の遅滞、辺閫の昇進の偏りを見て似道の疑念を買った。宰相辞任の際、度宗に「天下の安危を君主が知らず、群臣が軍前の勝敗を知らず、辺閫が陛下と大臣の意向を知らない」ことを憂えて涙ながらに退いた。瀛国公即位後は召されても応じず、罷相後17年で薨去した。著書に『六経集伝』『語孟会編』『楚辞補記』『洙泗裔編』『読荘筆記』『張氏祝氏皇極観物外篇』などがある。
史論
史彌逺は疎(済王)を廃し親を立て、直言をはばかった。鄭清之は再相の際に名声を落とした。彌遠の罪はすでに明らかであったため、当時の人は史嵩之の後継を喜ばなかった。喪中の起復に群起して攻めたが、嵩之は元来将才であった。董槐についてはこれを非難する余地がない。葉夢鼎・馬廷鸞の境遇は不幸というべきであろう。
宋史卷四百十四