宋史卷四百十四 列傳第一百七十三 葉夢鼎

出自と若年

  • 葉夢鼎は字を鎮之、台州寧海の人。もと陳待聘の子で7歳で母族に養われた。鄭霖・趙逢竜に学び、太学上舎試両優で釈褐、信州軍事推官を授かった。淳祐2年(1242年)雷変により上封事し人才登用を説き、同判で内侍・外戚の専権を戒めた。校書郎、莊文府教授などを歴任し、袁州転運司の和糴(強制買米)に反対して停止させた。

言官としての活動

  • 軍器少監兼兵部郎官として辺防・国計・国体の三事を論じ、宮闈への佞臣の浸透を憂えた。江西提挙常平兼吉州知事として、悍将を制し社倉・義倉を置き、李義山の冤罪を晴らした。国子司業として陛対、江西の和糴反対、崇政殿説書を経て国子祭酒に遷り、丁大全が柄国した際も昇進を拒み続けた。景定元年(1260年)太子詹事、吏部侍郎、権兵部尚書・吏部尚書を歴任した。

賈似道との対立

  • 丞相賈似道の会子(紙幣)新規発行や公田法に反対し、実施範囲を浙右に限定させた。同知枢密院事、参知政事を歴任、理宗崩御後、太后垂簾聴政を「母后垂簾は美事にあらず」と評した。似道の懇留にもかかわらず辞任を重ね、慶元府知事沿海制置使として海賊を平定した。咸淳3年(1267年)参知政事に再任、右丞相兼枢密使を拝したが、四川転運使王价の子の恩沢求めを似道が支持したことを不当と論じ、似道の母から似道が叱責を受けるほどの騒動となった。楊妃冊立の際の礼式問題や、地方官の陛見廃止に反対する上疏を行った。

晩年

  • 少保、観文殿学士を経て福州福建安撫大使、信国公に封じられたが赴任せず、右丞相兼枢密使を再度拝したが辞任を貫き、単車で嵊県に至り帰郷を願った。廉恥を重んじ、似道の使者の脅しにも屈しなかった。瀛国公即位後も故老として意見を求められ、教化・廉徳・軍籍整備などを献策。益王即位の際には少師・太乙宮使として召されたが道が塞がれて赴けず、南に向かって慟哭して帰った。2年後に卒した。