宋史卷四百七 列傳第一百六十六 張虙
張虙、字は子宓、慈溪の人。慶元2年(1196年)進士。国子博士・著作郎などを歴任し、楮幣を強制的な定価で流通させる弊や監司郡守の軽率な用人を批判した。知南康府として治績を挙げ、端平初め国子司業として召されて侍講・国子祭酒に至り、在任のまま卒した。
出自と地方官時代
- 張虙、字は子宓、慈溪の人。慶元2年(1196年)進士。故事により潜邸(皇太子時代の記録)の進士は名を升げられるが、虙は自ら陳ずることをしなかった。州教授に授けられ浙東帥属として帥が新昌の旧逋を督させると、虙は手書で諫めて「越人は瘠せているのだから咻噢撫摩(優しく撫でること)すべきである。今夏税を寛めるべき時に田里久饑の民に少し血気を養わせるべきなのに、なぜ旧逋を理(取り立てる)のか」と述べ力めて辞し行わなかった。戸部架閣文字を主管し太学正に改まる。時に新進の者が多く小才を逞しくして大体を害する中、転対で「立国には大経があり人主は静をもって天下の動を制すべし、今日の治には鍥薄(性急苛酷)に近く人心を咈い国体を傷うものがある、これを革めて祖宗の意を常に一日のごとくすべし」と論じ帝は嘉納した。
- 太常博士に遷り国子博士に転じる。金が滅亡に瀕していた頃、自治の道を論じ「天下の治には必ず根本がある、城郭は敵を禦ぐためのものだが溝壑に転徙する民がいれば何を敵と禦げるか、諸将は患いに備えるためだが枵腹盻盻(腹を空かせて物欲しげに見る)で食を得られなければ何の患いに備えられるか、今日の吏は守辺の務を知る者は多いが立国の意を明らかにする者は少ない、城郭を繕い米粟を聚めることに恃んで民を恤まなければその策は下策である」と論じた。旱により求言があると「上天の心はすなわち我が祖宗の心である、数年来祖宗が敢えてなさなかった事をなす者があり、祖宗の時に幾たび挙げても遂げず既に行っても復た寝め、始めは人言によって従い終には国体によって回されたものが、今皆疑いなく処されている。祖宗が長慮郤顧して悪運を消し乱の原を遏え兢兢として相い守ってきたものが、みな目前の利便快意の謀に変えられている。議者はただ衰靡の俗を振起させねばならず、圮壊の風を整刷させねばならないことは知っているが、振起整刷の術こそ衰靡圮壊の後に施すのが最も難しいことは知らない。なぜなら元気が既に傷ついた後には再び擾すべきでなく、人心が方に蘇りかけた時には駭動させてはならないからだ。楮幣(紙幣)はもともと民を便にするために作られたのに朝廷は一切の政をもってその聴を駭かせ、さらに一定の価をもってこれを迫れば郡県の間はたちまち騒然とする。監司郡守で老成遅鈍な者はすべて屏けられ用いられず、新進で功名を喜ぶ者を用いれば事を見て風を生じ事に臨んで痛決するが事は未だ果たして集まらぬうちに根本がすでに朘(削り取ら)れ、国に益がないうちに民生はすでに困窮する。これはみな祖宗の仁厚の徳に累を及ぼし、旱勢がこれほど甚だしい理由である」と論じた。
言官としての活動と晩年
- 国子監丞に遷り転対で「力めて正論に主って迎合の人に吾が機を投じさせないように」と願った。祕書郎に遷り寧宗会要の編纂に随伴し呉益王府教授を兼ね、莊文府講に改まり毛詩を終篇すると読んでいた諸子を尚書に改めることを乞い、帝は「私はもとより詩書をもって麟趾の美をなしていた」と述べた。著作佐郎兼権都官郎官に遷り、転対で「辺事には二つの病がある、戒敕は千条あっても悖繆(矛盾)を患い指意を明白にしても背違(矛盾)を復す、示す所を明らかにしないでどうしてその成を責められるか。まして戦なら彼を知るべきであり、和なら彼に請うべきであり、守なら自らこれを求めるだけである。もし守るべしと思うなら力めてその説を主り天下に明告し日々その守り方を講求すべきである、議論は合一を貴ぶのに今は雑に病んでいる。用人には嘗試すべきでなく任人には自ら疑うべきでない、朝廷はただ独任の勝てないことを慮っているが彼此互いに分かれて相扶持しなければ人が抗衡してもだれも禀属しない、制置ただ虚器を存し便宜がかえって多門から出る、体は合一を貴ぶのに今は分に病んでいる」と論じた。祕書丞に遷り著作郎に改まり、疾により外任を求め知南康府に出る。着任すると滞訟を決し衆は皆悦服した。前守の陳宓が銭七千緡を捐じて済民庫を置き築城の費に充てていたが虙が着任すると「民から贏(利益)を取る必要はない、私が万緡を捐じて先導とすればこれが続けば事が成し難いことなど恐れない」と述べた。転運使が銭一万二千緡を郡に置いて平糴を行っていたが虙はさらに銭一万二千緡を出してこれを増益させた。民はその利に頼った。営建禁旅の地が民に属していたものは索質剤(証書を出させ)その元値で償わせた。知処州に徙り知温州に移るが力辞し、遂に直祕閣主管千秋鴻禧観を授けられ制置使幕中の参議となった。使者尚威が力を愎らせ諫を用いず自らを恃んで用いていたが虙は正を守って阿らず、常に寛大をもってこれに済い、また海防の利便を論ずる書を上った。玉局観を主管する。
- 端平の初め国子司業として召され侍講を兼ね、礼記月令を進読して「獄訟必端平」の語に至ると敷暢厥旨(意義を敷衍)した。八陵が来復した際、修奉が議されたが論者が協一できなかったため虙は「この機に乗じて官を遣わして威儀を粛清し祗奉の故事を申すべきだ、もし紿(欺かれる)されるようなことがあっても功が就かなくても、天下の忠臣義士の心を感動させるに足りる」と議した。勧講の職を力辞し国子祭酒に昇進、月令の書は呂不韋から出たものではあるが人主が天時を後にして奉じるにはこの書は助けとならないわけではないとし、既に講じたところに基づいて十二巻を著し月ごとにこれを観るよう乞うた。権工部侍郎兼国子祭酒を命じられたがこの命が下ると卒した。詔で四官を贈られた。