宋史卷四百七 列傳第一百六十六 楊簡

楊簡、字は敬仲、慈溪の人。陸九淵に師事し心学を奉じた。知嵊県・知樂平県・知温州などで徳政を挙げ、知温州では規律を厳正にして分司を罷めさせた。理宗即位後は宝謨閣直学士等を歴任し致仕、太中大夫を贈られた。門人に錢時がいる。著書に「己易」「甲藁」等多数。

年表(5件)

出自と地方官時代

  • 楊簡、字は敬仲、慈溪の人。乾道5年(1169年)進士に挙げられ富陽主簿に授けられる。ちょうどこの頃陸九淵が富陽を通りかかった際に問答があり相い契り、遂に師弟子の礼を定めた。富陽の民は多く商賈に服し学を知らなかったが、簡は学を興し士を養って文風は益々振るった。紹興府司理を務め、獄を行うには必ず親臨し端黙(静かに)として聴きながら自ら吐露させた。越(紹興)は陪都で台府が鼎立していたが簡は中平無頗(公平で偏りがない)でひとえに理に従った。一府の役人が帥の怒りを買いこれを鞫すよう命じられたが、簡はこれに罪がないことを知り、平日を鞫するよう命が下ると「吏の過ちはどうして免れられようか、もし今日実に罪なきに往事を摘発して法にかけるなら、私はその命を奉じられない」と述べた。帥は大いに怒り簡は告身(辞令書)を取って納め争いをいよいよ力めた。常平使者朱熹がこれを薦めた。これより先、丞相史浩もまた簡を薦めていた。浙西撫幹に差され尹の張枃は凶年に不虞を戒めるべしと考え簡に三将の兵を督させ、諸葛亮の正兵法にならい肄習させると軍政は大いに修まり衆は大いに和悦した。

知県時代の徳政

  • 知嵊県に改まり外艱に丁り服除後知樂平県となり学を興し士を訓え、諸生の中には話を聞いて泣く者もあった。楊石という二人の少年が民の害となっていたのを簡は獄に置いて禍福を諭すと皆感悟して自ら贖罪を願い、これより邑人は訟を恥とするようになり夜には盗警もなく路には拾遺もなかった。紹熙5年(1194年)国子博士に召される。この二少年は帥県の民に随って境外まで送り「楊父」と呼んで見送った。丞相趙汝愚を斥ける議に対し祭酒李祥が抗章してこれを弁じ、簡も上書して「昨年の危急に軍民が潰乱しようとし社稷が傾き危うくなろうとした時、陛下自ら見たように汝愚は万死を冒して危を安に変え人情はようやく安定した。汝愚の忠は陛下が心に知る通りであり深く弁ずるまでもない。臣は祭酒として日ごろ諸生に義を訓えているが、もし利を見て義を忘れ害を畏れて義を忘れるようなら臣はそれを恥じる」と述べたが、まもなく彼もまた斥けられ崇道観を主管した。
  • 再任転じて朝奉郎、嘉泰4年(1204年)緋衣銀魚を賜り朝散郎権発遣全州となるが言により罷免され仙都観を主管した。嘉定元年(1208年)寧宗が更化すると祕書郎に授けられ朝請郎に転じ祕書省著作佐郎兼権兵部郎官に遷り、転対で経国の要・弭災厲消禍変の道を極言し、北境ではこれが涙とともに伝誦されたという。旱蝗による求直言の詔があると簡は封事を上げ「旱蝗の根本は近く人心にある」と述べた。考功郎官兼禮部郎官を兼ね著作郎将作少監に授けられ入対して問答往復すること八刻を過ぎ、上(帝)は目送すること久しかった。国史院編修官兼実録院検討官を兼ね、面対で陳べたことが未だ行われなかったことから外補を求め知温州となる。着任すると文書でまず妓籍を罷めて賢士を尊敬し、私鹺(塩の密売)五百人ほどが群れをなして境内を過ぎたことについて分司幹官が永嘉尉と水砦兵に捕らえるよう檄したが巡尉が郡に告げなかったため簡は驚いて「これを軽々しく動かしてよいのか、万一乱を召せば朝廷の憂いを招く。兵の節制は郡将にあり、節制に違えるのは天子の命に違えるのと同じ、節制に違えれば斬に応ずる」と述べ、旗を建て巡尉を庭下に立たせ劊手(処刑人)を両行に並ばせ郡官も盛服して西序に立たせその罪を数えて斬を命じた。郡官らが交々進んで悔罪の意を示し、良久(長い間)してようやく釈された。分司を罷めることを奏しその紀律はこのようだった。
  • 寓官が民田を買いその値を負っていたのを簡はその隷(従者)を追って責め、負われた者には償いを与えた。勢家の第宅が官河を障げていたのを即日撤去させ、城中はこれを喜んで「楊公河」と呼んだ。帝が使者を遣わして郡を譏察させた際、その使者は簡と先世からの縁故があり郊に出迎えても敢えて当たらないとして間道を走って州に入って客位に至ったが、簡はこれを聞いて敢えて入らず往来数四に及び、遂に車を駆って戻ろうとすると、使者は駆けつけて㦸門の外に立ち、簡もまた駆けつけてその外に立ち頓首して「天使なり、私は肅(敬い)を尽くさずにはいられない」と述べると、使者は「縁故の家の子なので礼には常尊がある」と述べたが、簡は「私は守臣であり、使者は天子の命を帯びこの邑に辱臨した、天使である、肅を尽くさずにはいられない」と応じ、遂に西翼から偕に進み北面東上の礼を守り、簡は歩みで常に西を歩み階段でも敢えて先に登らず、既に同時に西階から昇り足はためらって主席に就くことを敢えてしなかった。使者が「邦君の庭であり礼には常尊がある」と述べると簡は「春秋では王人(天子の使者)は微であっても例として大国の上に書かれる、天子を尊ぶためである、まして今の天子はなおさらだ」と持し続け、使者は言を強めるが数刻の後に不可能と悟り「私は不敏ながら敬承しないわけにいかない」として揖して出た。既に館に就くと簡は賓礼をもって会うことにし、儀典は曠絶しており邦人は初めて見るこの光景に驚いて息を殺して立って見た。簡は郡にあって廉倹自ら持し奉養は菲薄で「私が敢えて赤子(民)の膏血で自ら肥ゆることができようか」と常に語った。閭巷は雍睦(和やか)で忿争の声もなく民はこれを父母のように愛し、皆像を描いて事えた。

中央での言論と晩年

  • 駕部員外郎に遷ると老稚が扶擁して道を縁い傾城で哭送した。入対して喜順悪逆の私情を尽く掃い善政を尽く挙げ弊政を尽く除けば民怨は自ら消え禍乱は起こらないと言った。工部員外郎に改まり転対でまた賢を択び久任すべきことを言い、軍器監兼工部郎官に遷り、朝奉大夫に転じ将作監兼国史院編修官兼実録院検討官に遷り朝散大夫に転じた。金人が大饑饉となり帰順する者が日々数千万に及ぶ中、辺吏が淮水で射ち払っていたことについて簡は戚然として「土地を得るのは易いが人心を得るのは難しい、海内外はみな我が赤子であり、中土の民が塗炭に投じられ慈父母の元へ来るのに、逆に一斗一升の粟を惜しんでこれを迎え撃つのは、死を脱せんとしてかえって速やかに死を得させるようなものだ、これがどうして上帝の四方を綏する道と言えようか」と述べ、即日哀痛の意を上奏したが報われなかった。
  • 疾により去りを請うことがますます力強くなり、直宝謨閣主管玉局観、直宝文閣主管明道宮、祕閣修撰主管千秋鴻禧観に昇り、特に朝請大夫・右文殿修撰・主管鴻慶宮を授けられ紫衣金魚を賜り、宝謨閣待制提挙鴻慶宮に進み金帯を賜った。理宗即位後、宝謨閣直学士に進み金帯を賜り、宝慶元年(1225年)朝議大夫・慈溪県男に転じ、まもなく華文閣直学士提挙佑神観奉朝請を授けられ入見の詔があったが簡は屡々辞し、敷文閣直学士を授けられ中大夫に累加され鴻慶宮を提挙し、まもなく寶謨閣学士太中大夫致仕をもって卒した。正奉大夫を贈られる。簡の著書には「甲藁」「乙藁」「冠記」「昏記」「喪禮家記」「家祭記」「釈菜禮記」「石魚家記」があり、また「己易」「啓蔽」等の書がある。その論治で最も急なもの五つ、その次八つがあった。五つとは、左右の大臣・近臣・小臣を謹んで択ぶこと、賢を択んで久しく中外の官に任じること、科挙を罷めて郷挙里選を行うこと、法道が淫らになる制度を罷めること、諸葛武侯の正兵にならって伍法を治め不虞に備えることである。次に急なるもの八つは、兵を募って屯田し養兵の費を省くこと、民田を限って井田を漸復すること、妓籍を罷めて良に従わせること、和買折帛及び諸々の無名の賦・榷酤(酒の専売)を漸罷して羣飲を禁ずること、賢士を択んで大学で教え成った後諸州の学をそれぞれ分掌させ、また各々井里の士を択んで聚めて教え成った後各々邑里の学を分掌させること、周礼及び古書を取って会議し熟講しその世に行うべきものを行うこと、淫楽を禁ずること、書を修めて邪説を削ることである。これが簡の志であった。後の咸淳の間、制置使劉黻がその居に慈湖書院を作った。

門人錢時

  • 門人の錢時、字は子是、淳安の人。幼くして竒偉不群、読書は世儒の習に囚われず易をもって漕司に冠たる評価を得たが、その後科挙への志を絶ち理学を究明した。江東提刑袁甫が象山書院を作って主講席に招くと学者は興起し政事にも大いに裨益するところがあった。郡守及び新安・紹興の守がいずれも厚礼で招請し郡庠で講を開かせた。その学は大抵人心を発明し議論は宏偉で指擿は痛快、聞く者は皆得るところがあった。丞相喬行簡はその賢を知って特に朝廷に薦め「時は夙に才識を負い世務に通じ、田里の休戚利病や当世の是非得失を詳究し熟知していない者ではなく、ただ詩書を通じて陳言を守るだけの人物ではない」と述べた。祕閣校勘に授けられる。守臣に時が著した書を上呈させる詔があった。まもなく浙東倉幕を佐けるため出て、太史李心傳が奏して史館検閲に召し、転対で敷陳するに剴切で皆聖賢の精微に及んだ。まもなく国史宏綱が未完のため去を求め江東帥属を授けられ帰った。著書には「周易釈伝」「尚書演義」「学詩管見」「春秋大旨」「四書管見」「両漢筆記」「蜀阜集」「冠昏記」「百行冠冕集」がある。宝祐年間、太守の季鏞がこれを学に祠った。