宋史卷四百七 列傳第一百六十六 杜範

杜範、字は成之、黄巖の人。嘉定元年(1208年)進士。監察御史・殿中侍御史などを歴任し、鄭清之ら権相の私を弾劾して屡々忤い、辺事や台諫失職の弊を極言した。嘉熙年間知寧国府として治績を挙げ、晩年は同知枢密院事から右丞相に至り、孟珙と協力して大元軍に対処した。まもなく卒し、諡は清献。

年表(7件)

出自と初任

  • 杜範、字は成之、黄巖の人。若くして從祖の杜爗に知仁游從(学)び、朱熹に学んだ從祖にも学び、範に至って学は益々顕著になった。嘉定元年(1208年)進士に挙げられ金壇尉に調任、再び婺州司法に調任。紹定3年(1230年)戸部架閣文字を主管、六年後大理司直に遷る。端平元年(1234年)軍器監丞に改授される。翌年入対して「陛下が親覧大政して二年、更新の効を見ないばかりか、あるいは旧に及ばぬ憂いさえある。弊を致すには必ず原があり弊を救うには必ず本がある、三、四十年積んだ蠧習は浸漬薫染し日々深く日々腐り勝救できないものがあるが、その原は『私』の一字に過ぎない」と論じ、天位の重さにありながら私憾を懐き、天命有徳の者に私予が濫れ、天討有罪の者に私情が制し、左右近習の言に私聴が溺れ、土木無益の工に私費が侈ることが陛下の私が未だ去らないことである、大臣の間でも和衷の美が著れず同列の意が孚しまず紙尾押敕の事に預らず同堂決事に相い可否せず集議が庭に盈ちても施行が私見に決し諸賢が列にあっても密計が私門に定まるのが大臣の私が未だ去らないことであると論じた。

監察御史として

  • 「君相の私が未だ去らなければ教条の頒布も徒だ虚文となる。近ごろ名儒を召用し格物致知誠意正心の学を発明したのに、議論を好む者がこれを詆訾訕笑し、陛下がその言に一たび惑えば儒学を厭棄する意さえ生まれる、これはまさに賢不肖進退の機であり天下安危の係るところである、願わくはこの講明を施行に見せるべし」と論じた。祕書郎に改まりまもなく監察御史を拝し、「かつて権臣が用いた台諫は必ずその私人であり、密約が既に堅まってから命が出され、その弾撃は悉く風旨を承けたものだった、これにより紀綱が蕩然とし風俗が大いに壊れた。陛下が親政して真っ先に洪咨夔・王遂を用い宿弊を痛矯し奸邪を斥去したが、廟堂の上ではなお制を奉ずることが多く、貴近に及ぶと委曲に回護して先に祠を丐う請いを行い、事に掣肘があればあるいは彼此で調停して結局論罪の章を収め、彈墨(弾劾文)がまだ新しいのにすでに除目が頒布され、沙汰されて間もないのにすぐ美官を得る者もいる。これより台諫の風采は昔振揚したものが日に鑠かれ、朝廷紀綱は昔漸起したものが日に壊れている」と論じた。理宗はこれに深く同意した。
  • 九江守何炳が年老いて風寒に備えるに足りないと再奏したが事は行われず、範は「一守臣を罷めないのは事は小さいが、台諫の言が行われないのは事が大きい。台諫の言を阻むのはまだしも、陛下の旨さえ匿して行わないなら、これは勵精親政の時にあるべきことか」と再奏した。丞相鄭清之はこれを見て大いに怒り五たび章を上げて去を丐い「危機将発、朋比禍作」の語まであり、範が風旨に順承して粉飾擠陷したと謂った。範は遂に自劾し「宰相と台諫官には尊卑があるが事は一体に関わる、ただ同心で国のためにすべきで、私をもって公を害してはならない。行う者は宰相、言う者は台諫、行う者が言う者に大いに合わないことがあっても、これは清明の朝には常事である。古の大臣は紀綱を扶持しようとして台諫を崇奨した、言によって待罪する者があったとは聞くが、言を諱じて怒りを含む者があったとは聞かない。かつて柄臣が用いた台諫は必ずその私人だったが、陛下は庶政を更新し台諫は皆親擢から出ている、もし廟堂が臣の言を欲しないから口を鉗じ気を奪うなら、これは昔の私人を用いたことと何が異なるか。承順風旨とは何人のことか、粉飾擠陷とは何事か。願わくは臣の前奏を検して罷黜を賜り、臣が退いて田里に安んずる欲を従わせてほしい」と乞うた。

清之への抵抗

  • 時に鄭清之が妄りに辺功を求め河洛に用師し兵民の死者が十数万に及び資糧器甲は悉く敵に委ねられ辺境は騒然として中外は大いに困窮した。範は台を率いてこの事を論じ、併せて制閫の詐謀が上を罔いていることを言った。ここにおいて時望に合わない侍従近臣・貪暴害民の監司郡守を次々と論斥、清之はますますこれを忌んだ。太常少卿に改まり転対で「今日の病は賄賂交結の風より大なるものはない。名誉すでに隆んな者は左右の誉れを買って寵を固め、宦遊未達の者は梯級の求めをもって身を進め、辺方帥臣は黄金を反間には用いず朝廷の探刺に用い、厚賜は士卒に優ならず勢要への交通に優る、これにより賞罰が顛倒し威令が慢すことになる。罪貶される者は命を拒んで行かず、城を棄てた者は巧計で免を求め、援兵を提いる者は乱を召して掠奪をほしいままにし、重任に当たる者は勢を怙んで奪う。禁旅(禁軍)ですら驕悍で制し難く、監軍が群聚して剽刼している。陛下が小恩をもって大誼を廃さず、私情をもって公法を撓さず、宮掖を厳制して片言も閫禁に入らないようにし、閹宦を約束して讒謟に姦を売らせないよう願う」と論じた。範は入台以来屡々祠を丐い、ここに至ってまた五たび帰田を請うたがいずれも許されなかった。祕書監兼崇政殿説書に遷る。大元兵が江陵に迫ると、範は兵を蘄・黄に屯して江を窺うのを防ぎ、沿江帥臣に江淮制置大使を兼ねさせてその権を重んじ、淮西帥臣に急ぎ兵を調え糧を撥して江陵を援けさせるよう乞うた。殿中侍御史を拝すが辞して得られず、講筵を機に「臣はかつて耳目の寄を冒して宰相に忤うことがあり陛下の委曲な調護を煩わせた。今また負芒(憂患)の地に居させるのは、臣が絶私(私心なきこと)を比べたためか、それとも臣の巽懦(謙虚で臆病)な資質が調護されやすく数に備えさせるためか」と奏した。

台諫失職論と鳴復弾劾

  • 「昔人主の諍臣に対しては、それを楽しんで聴くか勉めて従うかのいずれかであった、そうでなければ疎んじて遠ざけたが、その言を用いずしてなおその人を用いる者があったとは聞かない。陛下は端平の親政以来正人を召用して台綱を振るわせたが、まもなく委曲調護の弊が生じ、その弾撃は牽制されて行われず、斥逐された者はかえって縁により進むことを求める。臣は入台の初めからこれを力言してきたが改まらぬばかりかその弊はますます甚だしい。節貼(訴状の貼り紙)が文理不全のままだったり、易写(書写がずさん)で台印すらないものさえあり、中書は敢えて執奏しない、見る者はこれを疑う。聖明の時にこの弊がここまで至るとは思わなかった。陛下がその言が用いられないことを理由にかえって超遷させるなら、これは台諫の官がもっぱら仕途の捷径となるということであり、陛下はただ台諫を崇奨することを盛徳と知るのみで直言を阻抑することが弊政であることを知らなければ、陛下は外に好諫の名があっても内には拒諫の実がある、天下に虚が実を蓋うことがあってよいものか」と論じた。範は始め「自分の言を得られないこと」を恨みとしていたが、ここに至って台諫失職の弊を極言した。
  • 時に襄蜀が共に壊れ江陵が孤危となり両浙が震恐する中、鄭清之が辺釁を横に啓いて宗祀を危うくしかけたこと、その子が権を招き賄を納れ貪冒して厭くことなく朝廷の銭帛を盗用して外国と易貨したことに実状があると述べ、併せて簽書枢密院事李鳴復が史寅午・彭大雅と賄をもって交結し曲げて地をなしたことを論じ、鳴復が父母の邦を恤まないなら陛下の社稷にどんな配慮があろうかと述べた。帝は清之が潜邸(即位前)の旧臣であり鳴復も未だ大罪が見えないため即座には行わなかったが、範も入台しなかった。帝が促すと範は「鳴復が去らなければ臣は去る、どうして経筵に入れようか」と奏し、再奏に及ぶと鳴復は抗疏して自弁し「台臣が臣を論じたが、指すところが何事かわからない、臣がかつて和議を主唱したことによるのか。幸い斥退されなければ国家を安んじ社稷を利するために生死を賭ける、そうでなければ寡廉鮮恥(恥を知らぬ)以外に、家に帰る扁舟五湖あるのみ」と述べた。範はさらにその寡廉鮮恥を極言、まもなく台を合わせてこれを劾し太学諸生も上書して交々攻めた。鳴復が関を出ようとすると帝はまた使者を遣わして召し還し、範は再び台を合わせて奏し「鳴復が宰執に交わったのはただ史寅午・彭大雅のみであり、この輩と密かに謀って近習に賂して密かに上聴を蒙り相位を密かに図ったに過ぎない。臣は近ごろ自弁の章を見たが、辺臣を交鬥させて嫌隙を啓き、妄りに和戦を言って脅持を肆にし、蜀が既に破蕩したのに舟を五湖に泛べようとし、さらに国家を安んじ社稕を利すると自任している。鳴復が久しく政府にいながら今どんな安利の策があるというのか、欺君罔上の甚だしさである。臣らの言が正しいなら乞い行うべきで、そうでなければ早く罷斥すべし」と論じた。改まって起居郎とする詔があると範は「臣が鳴復を論じてまだ何の措置も見ぬのに左史の命を拝せば、これは臣の言が当たらぬということになる、優遷を示されようとしているのか。臣は先に台諫がただ仕途の捷径となり朝廷の紀綱に無益であると奏したのに、自らそれを行い自らそれを踏むのでは臣の罪は大きい」と奏し、渡江して帰り江東提点刑獄を授けられ、まもなく浙西提点刑獄に改まったがこれを力辞し、鳴復も外に出て越を守ることとなった。

寧国府の治績

  • 嘉熙2年(1238年)差知寧国府、翌年着任すると折しも大旱で、範は即座に便宜をもって常平粟を発し寓公富人で粟を積む者にも発させるよう勧め、着任当初は倉庫が空に近かったがまもなく米は十万斛余、銭も数万に及び悉く下戸の代輸に充てた。両淮の饑民が渡江して来る者が多く剽掠していたが、その首張世顯は特に勇悍で衆三千余人を擁して城外に至ると、範は人を遣わして犒(もてなし)し擾さないよう指示して処分を待たせたが、世顯はひそかに窺城の意を持ったため範は計をもって捕らえて斬り、その衆を給して帰らせた。嘉熙4年(1240年)朝に還り、旱暵が荐(重なる)り人は粒食もなく楮券は猥りに軽く物価は騰踊し、都の内は気象蕭條で左浙近輔は殍死(餓死者)が道に満ち流民が充斥しても未だ安輯の政を聞かない、剽掠が風となり弄兵の萌がすでに開いている、これは内憂がすでに迫っていることであり、興り始めた北兵は勝ちに乗じて善く戦い中原の羣盗は名を仮って崛起して巴蜀を撃ち荆襄を拠り淮堧を擾し、近ごろ夔峡から鼎澧を窺い、疆場の臣は欺蔽を肆にし勝てば張皇として功を言い敗ければ掩覆して言わない、もし上流の無備に乗じて長江に飲馬しようとする謀があれば誰がこれを捍ぐのかと述べ、これは外患がすでに深いことであると論じた。
  • また「人主は上、天に事え、下、民を恃むが、近ごろ天文に変が示され彗星が芒を吐き、冬なのに雷が鳴り春に雪が降り海潮が都城を衝突し赤地が畿甸に幾遍する、これは天に得られずして天がすでに怒っているということだ。人は干戈に死に饑饉に死に、父子は相棄て夫婦は相保てず、怨気が腹に盈ち謗言が路に載り、等しく死ぬなら何をやらないことがあろうか、これは民に得られずして民がすでに怨んでいるということだ。内憂外患が交々至り天心人心が共に失われている中、陛下は二三の大臣とこの天下の上に安居していられるだろうか、陛下もかつてこの原因を考えたことがあるだろうか」と論じ、権相が妾婦の小忠を陽に進め君人の大柄を陰に竊み声色玩好で陛下の心術を内より蠱惑し廃置生殺を一切その意のままにしたことにより紀綱が陵夷し風俗が頽靡し軍政が修まらず辺備が廃缺したこと、今日の内憂外患は皆権相が三十年で醸成したもので、癰疽を養護して時を待つようなものであり、端平は更化と号したが相位にある者はその人ではなく旧の敗壊汚穢を改めることもできずかえって甚だしくなっている、これより聖意は惶惑して倚仗すべきところを知らなくなり、彼を讐とせず徳とし、彼を罪とせず功とするに至っては、天の陛下への望みは孤立し変怪が現れ、人の陛下への望みも觖(欠け)て怨叛が形をなす、陛下は天を敬い図旨・酒箴・緝熙の記があるのだから、この一念を持って傾頽を振起させるべきだが、道路の噂によれば警懼の意はただ外朝視政のわずかな時にだけ見え好楽の私は内廷燕媟の際に多く縦にされ、賢を任じていると名乗りながら左右近習が密かに間を得て、政は中書から出るはずが御筆の特奏がかえって中から出て左道の蠱惑と私親の請託が陛下の聡明を蔽い陛下の心術を転移させている、と論じた。

再度の召命と晩年の建言

  • ここに至って範が国を去ること四年、帝は労って慰め権吏部侍郎兼侍講に遷った。久旱により再び「陛下が寳位に嗣ぎ二十余年、災異の譴告は毎年のように起こり今に至っていよいよ甚だしい。陛下が天に応える方法は膳を減らし楽を徹し羣祀に分禱するだけに止まるのか、それともこれ以外に自ら反躬すべきか。反躬悔過に務めずただ天怒が解けるのを望んでも、天下にそんな理はない。陛下が旧習を一洗して天下を新たにし、宮女を出して声色を遠ざけ近習を斥けて蔽欺を防ぎ浮費を省いて国用に給し征斂を薄くして民力を寛めることを願う。また儲貳(皇太子)が未だ立たず国本が未だ虚であるので宗姓の賢者を選んで宮中に育て教導することを乞う」と論じ、銓法の壊れ、廟堂が既に堂除を持ちながらさらに時に部の欠員を取って人情に従っていること、士大夫が既に贓濫に陥っても不経の推勘(適切でない審理)で改正されることを言い、これはみな徇私忘公の害であると論じた。まもなく再び「天災旱暵は昔からあったが、倉廩が匱竭し月支が続かず、升粟一千(の米価)の高騰が止まらず富戸が淪落し十室九空になるのは昔なかったこと」と上疏し、「甚だしきは闔門饑死し相率いて江に投じ、里巷では首を聚めて執政を議し軍伍では誶語(罵り言葉)が聞くに忍びないほどだ、これがどんな気象で京城衆大の地に見られるのか。浙西は稲米の集まる地なのに赤地千里、淮民は流離して襁負相属し帰るところなく、辺塵が起こらなければ相依って苟活できるだろうが、万一敵騎が衝突すれば必ず彼らは奔迸して南に来るか、あるいは敵と共に従い敵のために鄉導となるだろう、巴蜀の覆轍を鑑とすべき」と述べた。
  • 「陛下は宵旰(早朝から夜まで)憂懼し寧んじる暇がないと察するが、宮中の宴賜は貶損されたと聞かず、左右の嬙嬖は放遣されたと聞かず、貂璫近習は斥遠されたと聞かず、女冠の請謁は屏絶されたと聞かず、朝廷政事は修飭されたと聞かず、庶府の積蠹は捜革されたと聞かない、国鈞を秉る者はただ私情に徇い道揆に主る者はただ法守を侵し、国家大政に至っては相持して決せず、司存細務では意を出してすぐに行う、命令は朝に更まって夕に変わり紀綱は蕩廃して存せず、一事として弊ならざるはなく一弊として極まらざるはない、陛下はまさに震懼して自省し中外の臣庶に詔して当今の急務を思わせるべし。河道未通の軍餉をどう運ぶか、浙右の旱歉に荒政をどう行うか、財計空匱の糴本をどう足すか、流徙失所に遣使をどう定めるか、敵情叵測の辺圉をどう固めるか、それぞれ力を悉くし思いを尽くして持危制変の策を陳べるべき」と論じた。吏部侍郎兼中書舎人を拝し、再び宴賜不節・修造不時・玩寇縦欲の数事を極言、兵部尚書を権兼し禮部尚書兼中書舎人に改まる。淳祐2年(1242年)同簽書枢密院事に擢される。

同知枢密院事から宰相へ

  • 範は既に都堂に入り、行事の得失や除授の是非を悉く抗言して隠さなかった。丞相史嵩之は外に寛容を示しつつ内には忌んだ。淳祐4年(1244年)同知枢密院事に遷り、李鳴復が参知政事となると範は鳴復と共政することを屑(潔)としせず去ろうとしたが、帝は中使を遣わして召し還し諸城門を出ないよう敕した。範の太学諸生もまた上書して範を留め鳴復を斥け嵩之をも斥けることを求め、嵩之は諫議大夫留晉之らに範及び鳴復を論じさせたため範は遂に行こうとしたが、嵩之が喪に遭って起復を謀り果たされなかったため、ここにおいて範を右丞相に拝すことになった。範は游侶(同輩を出し抜くこと)を遜って許されなかったため力疾して入覲し、帝は自ら「開誠心布公道集衆思廣忠益」を書いて範に賜った。範は五事を上奏した。正治本(政事はつねに中書から出るべきで旁蹊が威福を窃むのを許すな)、粛宮闈(内外の限を厳しくし宮府一体とする)、択人才(その長を随わせ久しく職に就かせ遷転の常格だけを守らせない)、惜名器(文臣貼職・武臣閤衞は徇私市恩の地とすべきでない)、節財用(人主自身の身から始め宮掖・貴近から始め封樁国用出入の数を考え罅漏を補窒し、塩筴楮幣変更の目を求めその利害を斟酌する)の五つである。仍って早く国本を定めて人心を係ぐことを乞うた。時に親王近戚が多く恩澤の降下を求め前朝の杜衍の例を引くと、範はみなこれを封還した。

堂除の改革と十二事の建言

  • 堂除の闕を撥して吏部に帰し中書の務を清くすることを乞い、書庫架閣・京教・要地幹官だけ人に留めることには不便との声もあり太学生もこれを上書し帝はこれを範に示した。範は「三、四十年権臣が国柄を執り公朝の爵祿をもって私恩を市い、吏部の闕を取って堂除に帰した。太学諸生も見聞に習い近年の弊政を祖宗の成法と思っている。もし臣の言を是とし上下がこれを堅守すれば、諂う者は多くなり謗る者は息むだろう」と奏した。まもなく選調に赴く者に滞りがなくなり資格に合う者は美闕を得るようになり衆はようやく服した。帝が宰執にそれぞれ当今の利病と行うべき政事を条陳させると、範は十二事を奏した。公用捨(人材の進退はすべて国人の論を参照すべし)、儲材能(内には朝列で宰執を侍従台諫から儲え侍従台諫は卿監郎官から儲える、外には守帥に江面の通判を幕府郡守の儲とし江面の郡守を帥閫の儲とする、それ以外の職も同様にすれば臨時に人材不足の憂いがない)、嚴薦挙(中外の臣に薦挙は必ず職業功状事実を明著させ褒詞のみに止めるを許さず、朝廷が記録し挙げた通りでなければ挙主も罰する、侍従台諫が人に挙を求めることを許さない)、懲贓貪(贓罪の案が上がればすぐに勘証を下し実に贓敗があれば必ず祖宗の法で繩し、実跡なく監司が妄りに贓罪で人を誣告した場合も相応の処罰をし、台諫の風聞言事による贓罪も勘証を行う)、専職任(吏部は給舎を兼ねてはならず京尹は戸吏を兼ねてはならず経筵も専官とすべき)、久任使(内は財賦・獄訟・銓選その他煩劇の職は必ず三年を経てから遷らせ、外は監司郡守も再任させ能わざる者は速やかに罷斥する)、抵僥倖(中外に告げて各々職務に励ませ、朝廷は弊例で恩を過ごさず宮廷は私謁で法を廃さず、勲旧の家・邸第の戚も名器を軽く仮さない)、重閫寄、選軍実、招土豪、宜倣祖宗方田の制(溝洫を疏らせて縦横に経緯し互いに灌注させ、溝を鑿った土を積んで径とし並轡して馳せられず結陣して進めないようにする、曹瑋が陝西を守った制のように敵騎の来襲には阻限があり溝の内はまた耕屯できて陸地より勝る)、治邊理財(今最も当今の急務であり、明るく善くする者を捜訪して聞かせる)である。

孟珙との協力と晩年

  • 時に孟珙が重兵を権り久しく上流に居り朝廷はその制し難きを疑っていたが、ここに至って書をもって範に賀すと、範は「古人は将相調和すれば士も心服して附くと言った、これより互いに心を同じくして国のために従うべきで、術をもって籠架しあうのは範の屑(潔)とするところではない」と答えた。孟珙は大いに感服した。まもなく大元軍が大挙し五河の絶中流に営柵を置き重兵で合肥を絶ち援を得られないようにして夀春を必取する計を立てた。範は惟揚・鄂渚の二帥にそれぞれ兵を調え東西から応援させ、遂に捷報が届いた。範は功を記して賞を行うにいずれも曲当(適切)で軍士は皆悦んだ。まもなく卒す。少傅を贈られ諡は清献。著述に「古律詩歌詞」五巻、「雑文」六巻、「奏藁」十巻、「外制」三巻、「進故事」五巻、「経筵講義」三巻がある。