宋史卷四百五 列傳第一百六十四 劉黻

劉黻、字は聲伯、樂清の人。丁大全が丞相董槐を追い落とそうとした際、太学生を率いて諫争し南安軍に流された。淳祐10年(1250年)太学に入り、咸淳年間には監察御史・正字として朋邪の弾劾や遊幸の諫言を行った。宋末、陳宜中の招きに応じず羅浮で病没し、妻子は海に投じた。著書に「蒙川集」。

年表(3件)

太学生としての諫争

  • 劉黻、字は聲伯、樂清の人。早くから令聞があり鴈蕩山の僧寺で読書し、三十四歳で淳祐10年(1250年)に試して太学に入るや儕輩(同輩)は既に翕然としてこれを称した。丁大全がまさに台属として丞相董槐を劾奏し追い落とし地位を奪おうとした際、黻は同舎生を率いて闕に伏し上書し、朝廷が大臣を進退させるにはまさに礼をもってすべきであると論じた。書は執政を忤らせ黻は南安軍安置に送られ、母の解氏に別れを告げると解氏は「臣として忠のために死ぬのは直によって貶されるのは分に相応しい」と述べ黻を速やかに行かせた。黻は南安に至り濂洛(周敦頥・二程)の諸子の書を尽く取り、その精切な語を摘んで書十巻を輯め「濂洛論語」と名付けた。丁大全が貶されると黻は太学に還った。

党論の中の直言

  • まもなく侍御史陳垓が程公許を誣劾し、右正言蔡榮が黄之純を誣劾し、二公は罷免されて六館は相顧して失色した。黻はまた諸生を率いて上書し「黻らは教養を蒙り国家の休戚利害を自らの痛痒のように思っている。朝廷が一人の君子を進めると台諫が一つの公論を発すれば弾冠して相い慶び喜びが肺膺に溢れるが、逆に君子が鬱して用いられず公論が沮まれて伸びなければ憂憤が忡結し寝食を廃する」「陛下の在位ほぼ三十年、端平年間には公正な人物が朝に萃り忠讜が接踵し天下は翕然として『これは小元祐だ』と称し、淳祐初めには大姦が屛跡し善類が地位にあり天下はまた翕然として『これも一つの端平だ』と称したのに、近年培養保護の初心が転移してしまっている」と論じた。
  • 「祖宗が台諫を建置したのは君子を伸ばし小人を折るため、公論を昌んじ私説を杜ぐためであるのに、今の老饕(貪官)は自ら恣にし姦種が相い継ぎ、諂諛をもって風旨を承け傾険をもって機を設け淟涊(卑劣な手段)をもって官爵を盗んでいる。陛下は羣賢を抜擢することを識らぬわけではないのに彼らは君子の党を空しくすることを忍び、陛下は直言を容受せぬわけではないのに彼らは公議の戈を逆さに振るうことに勇む」と論じ、程公許が家居から起用された機会に君子が進退の機を見出したのに、坐席が未だ温まらぬうちに弾章が上げられたことについて「これでは草野の諸賢が幾(機微)を見て深く遁れ、君子の脈が絶えることを恐れる」「近年朋邪が風潮を煽り、緘黙が風となり、奏事者は陳言を襲い故事に応じるだけになっている」と述べた。
  • 「垓・榮の輩は貪饕頑忍のまま久しく要津を汚し根拠して抜けない、劉向の言う『賢を用いるは石を転がすが如く、佞を去るは山を抜くが如し』を今まさに見る、畏るべきではないか。まして今国嗣は未だ定まらず事会は方に殷んで民生の膏血は朘削しつくされており、頼みとするのは天命を祈り人心を係ぐ君子と公論の一脈のみだ」と論じ、「小人は不恤の心をもって無忌憚の事をなし、その意は爵位を高め権勢を盛んにし富貴を子孫に遺すことに過ぎず、国家のために計る暇はない」とし、「天下の患いは朝に公論なく国に君子なきより大なるはない。我が朝はもと天下に大きな失徳はなかったが宣靖の禍があった、それには理由がある。始めは邪正が交々攻め、中では朋邪が偽を翼して隠に陥れ密かに詆り、終には是非を倒置し黒白を変乱させ、党禍に至らずには止まなかった」と歴史を引き、「もし劉安世・陳瓘ら諸賢がなお健在であれば楊畏・張商英・周秩の輩は久しく台綱を握れなかったろう、その禍はこれほどには至らなかったろう」と述べ、劉黻はさらに大奸巨孽が「閑散地」に投げられて朝廷の意向を覘い進用の機を図る歴史(元祐の章惇・呂惠卿、楊畏の登用)を引き、右轄(宰相)が久しく虚しい今、姦臣が垂涎していることを警告した。

遊幸への諫言と晩年

  • 遊幸を諫める疏では「天下に道あれば人主は憂勤をもって逸楽を忘れ、天下に道なければ人主は逸楽をもって憂勤を忘れる。漢武帝の単于震讋にもかかわらず千門万戸の観あり、唐明皇の北辺無事にもかかわらず驪山温泉の幸あり、隋の煬帝・陳の後主は危亡が日に迫るのに遊観に度がなかった。堯舜禹湯文武は兢業祗懼して終始憂勤、遊畋を敢えてせず日昃に食する暇もなかった。近年、幸を利とし玩を常とすることが世故を軽視するに至っている」と論じ、龍翔・集慶・西太一の創建、遊幸・禱祠・虚誕不経の説の蠱惑を挙げ、「西太一の役は佞者が『太一の臨む分野は福をなす』と説き、近年呉から蜀へ移したが、もし祈禳の説の通りなら西北坤維は按堵できるはずなのに、今五六十州のうち安全なものは十に満たず敗降が相継いでいる、福はどこにあるのか」と説いた。
  • 「人主に過ちなきはあり得ない、過言過行があれば宰執・侍従が言い、給舎・台諫が言い、縉紳士大夫が言うのが君を当道に納める所以である。今陛下は道を知らぬわけでも人言を受けぬわけでもないのに、宰執以下が寵を希って言わない、あるいは言っても力を尽くさないのは、陛下を愛していないからだ」と論じた。館職試を経て咸淳3年(1267年)監察御史を拝し、内降恩沢を論じて「天下を治める要は命令を謹むにあり、命令を謹む要は内批を窒ぐにある。帝王の枢機は必ず中書を経て門下の封駁を試み、その後尚書省に付して施行する。三省を経ずに施行されるものは斜封墨敕と言い、効とするに足りない」と論じ、郊祀慶成以来内批が頻繁で邸報の半分が内批により行われていることを陛下のために惜しみ、祖宗の時代には禁中の処分は「内批」と呼ばれたが英宗が悚然として避けたことなどを引いて、命令は三省から出すべきことを説いた。
  • 咸淳4年(1268年)正字に改まり「正学が明らかでなければ義理は日々微かになり、異端が息まなければ鼓惑は転じて熾んになる。臣は犯顔逆耳が臣子として難いことを知らぬわけではないが、君徳世道に重く関わるので懇惻に開陳せずにはいられない」と疏を上げたが日を踰えても付外されず、孟軻の「言責ある者はその言を得なければ去るべし」を引いて自ら去りを引いた。父の喪に丁り服除後集英殿修撰・沿海制置知慶元府事として済民荘を建て士民の急を済い、貢士の資と郡庠の耆老緩急の需に備え、また慈湖書院の建立を請うた。八年後召し還され刑部侍郎を拝し、九年に朝奉郎に改まり吏部尚書兼工部尚書兼中書舎人兼修玉牒兼侍読を試み、王十朋の祠堂の田土を給するよう疏を上げた。十年、母の喪に丁り翌年江上で師が潰えると丞相陳宜中は黻を端明殿学士として起復させようとしたが起きず、賈似道・韓震の死に及び宜中は二王を擁して温州から海に入る策を謀り、黻を兵で迎えて共政させようと相位を譲ろうとしたため、黻は宗祀を母弟の成伯に託し羅浮に至って疾により卒した。かつて陳宜中の夢に「今年天災が流行し人が死ぬこと半ばに及ぶが、大黄を服する者は生きる」との告げがあり、疫癘が起こると服した者は死を免れたが、黻が病んだ際は宜中がこれを服させたが救えなかった。妻の林氏は一家で海に投じ、まもなく海上の事も瓦解したという。黻には「蒙川集」十巻が世に行われた。