宋史卷四百四 列傳第一百六十三 徐邦憲

侂胄への抵抗と忠節

  • 徐邦憲、字は文子、婺州義烏の人。幼くして頴悟、陳傅良に師事して名物・義理を究め、史伝・百家の書に通じた。紹熙4年(1193年)礼部試で第一人となり進士第三に登る。累遷して祕書郎となる。韓侂胄が兵端を開こうとした頃、同悪する者は付和して敢えて非を語らない中、邦憲は独り真っ先にその非を言った。外任を乞い知処州となり、陛辞の際に力めて用兵の太驟なるべからざることを諫めた。二年後召し還され、名義を求めて兵を息ませるには建儲によって赦を行うのが最善であるとし、殊常の恩を借りて弭兵の名とし、赦宥を行い恩沢を大いに施し東は宣諭、西は宣撫に委ね、弄兵の咎を洗い戍辺の師を省き倉粟を発して餓殍を賑わし農時に及んで民業を復すべきことを述べ、「これが建儲の義であり、息兵と表裏をなす」と説いた。さらに侂胄に上書したが、侂胄はその言を悪み御史徐柟を嗾してこれを撃たせ、秩を鐫し祠に罷された。
  • まもなく官に復し江西憲を除され江東漕に改まり、戸部郎として淮西総領となる。侂胄が既に誅殺され、尚書倪思が邦憲を自らの代わりに挙げると、召対で「今日の更化は紹興乙亥(秦檜の専権後の更化)と同じ論にすべきではない。秦檜が専権していた頃は天下は猶緝理できたが、今侂胄が専権した結果、天下は敗壊し尽くしている」と上言した。尚右郎に除され太子侍講を兼ね、左司に除されて金への賀正使の接伴を務め、宗正少卿を除され回って権工部侍郎・知臨安府となる。祠を乞い知江州となり、郡を得て節制屯戍兵を乞う奏をなし、寳謨閣待制致仕をもって官にて卒した。年五十七。諡は文肅。

史論

  • 汪若海・柳約は南渡播遷の時に仕え、その志は君父を尊ぶことにあったから、その麐(麟)書を読んで悲しむ。張運・李舜臣は職務を挙げ遺愛を民に残した。孫逢吉・章頴は正人の非邪と正学の非偽を弁正した、まさに君子であろうか。商飛卿・劉頴・徐邦憲はいずれも権臣が国柄を執る日に立場を立て、卓然として勢利に動かされなかったからこそこのようであり得たのだろう。