宋史卷四百二 列傳第一百六十一 張詔

出自と忠誠のエピソード

  • 張詔、字は君卿、成州の人。少くして張浚の帳下に隷し功を積んで和州守となる。かつて聘礼の任を承ったとき、金人が持って来た祐陵・献陵(徽宗・欽宗)の像は皆北地の服であった。張詔はこれに向かって再拝し、館者が問うと「私はその人を識らないが、龍鳳の姿・天日の表を見れば北朝の祖宗ではないと疑う、拝さないでいられようか」と答えた。孝宗はこれを聞いて喜んだ。これにより驟かに用いられる。
  • 紹熙五年、興州都統制兼興州知事に除せられ呉挺に代わる。慶元二年、趙彦逾が蜀を帥した際、関外は興元から遠く緩急の事機を失うことを恐れ、東西に分けて二帥とすべきと請い、張詔は遂に西路安撫司公事を兼ねる。先に趙汝愚が従官であったとき、毎に呉氏が世々蜀兵を掌るのは国家の利にならないと奏し、張詔をもって武興の軍に代領させ他日握兵の漸を杜つべきと請うたが、これは汝愚の意で呉曦を文臣の帥として杜つためであり、実行に及ばなかった。
  • 汝愚が既に枢密院を知り、力めて辞して拝さず光宗に「若し武興が朝除の帥ならば臣は夕拝命する」と白し、上はこれを許した。張詔を成州団練使・興州諸軍都統制とした。張詔は興州にあって甚だ士心を得た。慶元六年に卒去、郭杲がこれに代わった。