宋史卷三百九十八 列傳第一百五十七 李蘩
李蘩、字は清叔。崇慶晋原の人。進士に及第し地方官を歴任、飢饉のたびに義倉開放・租税免除などの荒政を行い多くの民を救った。晩年は四川の科糴の弊を官糴に改める施策を主導し、呉氏の兵権世襲の危険を早くから見抜いていた人物。
年表(1件)
- 淳熙三年四川の科糴の弊が上言され、制置使范成大とともに相度する命を受ける
出自と荒政の実績
- 李蘩、字は清叔。崇慶晋原の人。進士に及第し隆州判官となり、綿州を摂した。凶年に義倉の穀を安値で放出し、銭を下戸に貸し与え、また民が茅や秸を米に換えることを許し、粥や紙衣を作って自ら衣食を供し、十万人を活かした。翌年また饑饉となり、邛・蜀・彭・漢・成都では盗賊が蜂起したが、綿州だけは安堵していた。永康軍知事、利州提点成都路刑獄兼提挙常平に移る。凶年には先んじて倉を開き租税を免じ、百七十万人を活かした。
- 興元府知事・安撫利州東路となる。漢中は長く飢饉に苦しみ、剣外の和糴はこの州に特に多く課せられていた。蘩はかつて匹馬で阡陌の間を巡り民の疾苦を訪ねたところ、老婆が進み出て「民が飢えるのは和糴のせいだ」と泣きながら訴えた。蘩はこの言に感じ、免除を奏請し、百姓は大いに喜んだ。倉部員外郎・総領四川財賦軍馬銭糧に徙り、郎中に昇る。淳熙三年、廷臣が四川の毎年の和糴が実質は科糴であると上言し、詔して制置使の范成大とともに相度させた。蘩は諸州の毎年の糴が六十万石、官糴に従えば毎年約百万緡かかるが、経費の中で損益を斟酌し科糴を官糴に変え、貴賤を時価に応じて損なわぬようにし、出納も量に応じて僅かな利を貪らなければ、軍は乏しくならず民は賦を加えられずに済むと奏した。利民十一事を書き上げ、前後三年にわたり十三度上奏し、天子の詰問の詔は八度に及んだが、ついにその議のとおりとなった。民は官との取引を楽しみ、遠近から争って集まり、軍餉は坐して供給され、田里は科糴を免れ、初めて生の楽しみを知った。折しも大豊作となり米価は急落し、父老は「三十年来なかったこと」だと語り、梁洋の間では蘩の像を描いて祀った。范成大は駅伝で「関外の麦の実りは平年の倍で、実に和糴を罷めたことによる。民力は稍く緩み農事に尽くせるようになった」と上疏し、孝宗はこれを見て「和糴を一年免じただけで田間の和気がこれほどとは。民力は重く困らせてはならないと知った」と述べた。
- 太府少卿に擢される。范成大が召見された際、孝宗はまず和糴の事が長く行えるかを問い、成大は「李蘩がこの事を自ら任じており、臣はこの身をもって李蘩を保証します」と奏した。孝宗は大いに喜び「李蘩のような人物は得難い」と述べた。上意はまさに蘩を重用しようとしており、蘩自身も監酒・和買の弊を蠲免して民害を尽く滌ぐことを奏そうとしていたが、折しも病にかかり卒した。詔して蘩の官吏としての功に対する致仕の恩の他に、特別に遺表による庶官一人の推薦を許した。これは以前になかったことである。
- かつて蘩が眉山県を治めていた頃、成都の漕試を校閲し、呉氏が代々兵柄を世襲していることが必ず蜀の乱を醸すと考え、策問に「長く人に兵柄を仮せば、患いをなさなかった例はない。漢の武帝・宣帝の明をもってしても大臣が兵を握る禍を消すことはできず、後漢の光武帝の烈をもってしても藩鎮の握兵の権を収めることはできなかった。劉氏を危うくし唐室を殲ぼしたのは、多くこれによる」と発した。呉挺はこれを怨みに思った。後に蘩が餉事を総領していたとき、挺は軍糧が粗悪だと偽って奏したが、孝宗がこれを蘩に問うと、蘩はその見本を封じて進呈し、挺の妄言はついに露見した。それから三十余年を経て呉曦が果たして蜀を挙げて叛き、安丙が曦を誅した後、常に人に「我らは焦頭爛額であった。誰が李公の先見に及ぼうか」と語ったという。蘩の講学と臨政はいずれも源委があり、著書十八種、『桃溪集』百巻がある。
史論
- 余端禮は平時の論議は剛直であったが、丞相となってからは韓侂胄に制せられ、志があっても善類を扶掖しきれず、頗る君子の論を免れなかった。李璧・邱崈はともに侂胄に軽々しい兵で衅を招く失を諫めたのに、侂胄が用兵を決意し葉適に詔を起草させようとして葉適が従わなかった際には璧が自らこれを引き受けており、その見解が前後で相反しているのはなぜか。附会の罪は璧に免れがたいものがある。倪思は直言をもって主を諫め、しばしば権臣に触れながら三度黜されてもその風格を変えなかったのは尚ぶべきである。李蘩は至る所で荒政を挙行し苛賦を蠲免し、ほとんど古のいわゆる恵人と言えるだろう。