宋史卷三百九十八 列傳第一百五十七 倪思
倪思、字は正甫(?–嘉定十三年)。湖州帰安の人。乾道二年の進士。著作郎・中書舎人などを歴任し、李皇后の政治関与や韓侂胄の専権をたびたび直言で諫めた。三度黜されてもその節を変えなかった直臣。
出自と孝宗朝の献策
- 倪思、字は正甫。湖州帰安の人。乾道二年の進士。博学宏詞科に及第し、累遷して秘書郎、著作郎兼翰林権直となる。光宗即位後、典冊を掌り尤袤と交互に故事を掌り三制を行い並んで学士を宣した。上は思の能否を試そうとし、一夕のうちに公師の四制の訓詞を併せて草させたところ、精敏で朝廷中がこれを誦じて感嘆した。権侍立修注官として直前奏「陛下がまさに受禅せられ、金主もまた新たに即位した今、その命を制するには毎事これに勝つ必要がある。彼が奢れば倹をもって勝ち、彼が暴なれば仁をもって勝ち、彼が怠惰なれば憂勤をもって勝つべし」と述べた。また諫官を増置し専ら諫争を責とさせることを請い、また内外の諸将を召し見てその才の有無を訪ねることを乞うた。将作少監兼権直学士院に遷り、権中書舎人を兼ね、中書舎人・直学士院同修国史に昇り、侍講を兼ねた。
- 孝宗は戸部の経費の余剰を三省に置いた封椿庫に蓄え軍用に備えていたが、紹熙年間に移用が頻繁になった。緡銭十五万を内帑に発して犒軍に備えよとの詔が出た際、思は実際には他の費用に充てられると考え発しないよう請い、「往年の歳入は約四百六十四万緡だったが、支出は二万にも満たない。痛切に節約しなければ封椿はこれより蓄えを失う」と述べ、犒軍は毎年四十万緡を定額とすることが決議され、これにより費用に節度が生まれた。
- また「唐制では諫官が宰相に随って入閣していたが、今は諫官が月に一度奏対するのみである。宰執と共に召し引かれることを許されたい」と述べ、上は称賛した。礼部侍郎に除せられる。上が長らく重華宮に赴かなかったため、思は疏を十度上げ言辞は多く痛切であった。折しも上が嘉王を召したとき、思は「夀皇が陛下にお会いしたいと思うのは、陛下が嘉王を思う心と同じです」と述べ、上は感動した。
李皇后への諫言と韓侂胄への直言
- 当時、李皇后が政に関与していた。思は『春秋』の「姜氏、齊侯に濼に会う」の講義に際し、「人主が国を治めるには必ず斉家から始めねばならない。家を斉えられない者は、その漸を防げない。狎昵に始まり恣横に終わり、ついには陰陽の位が入れ替わり、内外の別がなくなり、甚だしくは父子を離間させる。漢の呂氏、唐の武韋のように、ほとんど乱亡に至る例は、ひとり魯の荘公のみではない」と奏した。上は悚然とした。趙汝愚が同じく経筵に侍していたが、退出後、人に「讜直なことこのようで、我らは及ばない」と語った。権吏部侍郎を兼ね、出でて紹興府知事となる。
- 寧宗即位後、婺州知事に改まるが赴任前に提挙太平興国宮となり、召されて吏部侍郎兼直学士院に除せられた。御史の姚愈が思を弾劾し、太平州の知州として出され、泉州・建寧府を歴知したが、いずれも言者の論により去った。久しくして召し還され、礼部侍郎兼直学士院に試された。韓侂胄が先に書をもって「国事がこのようなとき、一世の人望がある者が、ひとえに潔身をもって賢とすべきではあるまい」と殷勤の意を伝えたが、思は「ただ拙をもって時好に迎合できないだけです」と返答した。
- 赴召の際、当時の慣例では引対前に侂胄を先に謁見するものとされ、ある者が思にもこれに従うよう勧めたが、思は「私門は登るべきではない、況して未だ君を見ていないのに」と答えた。入見の際にまず言路の不通を論じ、「呂祖儉が謫徙されて以来朝士は忠を輸せず、呂祖泰が編竄されて以来布衣は説を極めず、太学の士が心を吐露しようとしても除籍や呈藁で威嚇され、誰が肝胆を披瀝して威尊を触冒するだろうか。近くは北伐の挙にあたり不可を言った者は一、二人に過ぎない。もし未挙の前に相継いで力争し、より詳審にしていれば軽挙に至らなかっただろう」と述べた。また蘓師旦の贓が巨万に上ることを挙げ「なぜ黥戮して三軍に謝しないのか」と論じ、皇甫斌の襄漢での喪師、李爽の淮甸での敗績、秦世輔の蜀道での潰散はすべて罪大にして罰軽いと論じた。また士大夫が廉恥に乏しく権勢の門に列拝し、甚だしくは門竇に匍匐して門生と称するだけでなく恩主・恩父とまで称し、諂文豊賂すら意に介さないと論じた。侂胄はこれを聞き大いに怒った。
- 思は退出後、侂胄本人に「公は明に余りがあるが聡に不足がある。堂中での裁決が流れるようであるのは明の余りだが、蘓師旦に蒙蔽されているのは聡の不足だ。周筠は師旦と共に姦利をなし、師旦がすでに敗れても筠はなお存している。人は『平章、騎虎の勢下れず』と言うが、これは李林甫・楊国忠の晩節に等しい」と語った。侂胄は悚然として「聞かなかったことを聞いた」と述べたという。司諫の毛憲が思を弾劾し、祠禄を得た。
侂胄誅殺後の言動と最期
- 侂胄が誅殺された後、復召され首対で淳熙の旧例に倣い太子に議事堂で機政を習わせるよう請うた。また侂胄が擅命し、事あるごとに内批特旨によったことを戒めとすべきと述べた。権兵部尚書兼侍読に除せられ、対を求めて「大権が今まさに帰ったところで、微を防ぐべきである。一たび干預の端緒があれば必ずまた覆轍を踏む。今、更化の名はあっても更化の実がない。侂胄がすでに誅せられても国人の言はなお未だ静まらないのは、枢臣(史彌逺を指す)がなお宮賓を兼ね、不時に宣召され、宰執が同班同対すべきであり、枢臣もまた権を遠ざけて外議を息めるべきだからである」と述べた。
- 金人が侂胄の首級を求め、廷臣に集議させる命があった。思はこれを国体を傷つけるものと考えた。礼部尚書に徙る。史彌逺が両従官を除するにあたり参政の錢象祖が与り聞かなかったため、思は「除目の擬拟は宰執が共に進めるべきであり、専ら侂胄の権に聴くようであれば、前車の覆轍を鑑とすべきだ」と述べた。まもなく史彌逺は上章して自弁し、思は去ることを求めたが上はこれを留めた。
- 思は対を求めて「先日の枢臣独班の論は覆轍を踏むことを恐れてのものだ。宗社が再び壊れるのに堪えられようか。よろしく親しく台諫を選び権臣の弊を革め、あわせて宰輔を任じて専擅の失を鑑とすべきだ」と述べ、史彌逺は恨みを抱いた。思の辞去の意はますます固くなり、宝謨閣直学士・知鎮江府に除せられ福州に移った。彌逺が右丞相を拝したとき、陳晦が起草した制詞に「昆命元亀」の語が用いられ、思はこれを歎いて「董賢が大司馬となったときの冊文に『允執厥中』の一語があり、蕭咸はこれを尭が舜に禅譲した文と評し、長老がこれを見て心を懼れぬ者はなかったという。今、制詞にこの語を引くのは舜禹の揖譲を意味する。天下に蕭咸のような者があれば、これを読んで大いに驚かないだろうか」と述べ、上省牘して麻制の改訂を請うたところ、詔が下って分析され、彌逺は陳晦を殿中侍御史に除して思を「藩臣が僭かに麻制を論じた」として弾劾させ、免職となった。以降、二度と復帰しなかった。しばらくして宝文閣学士・提挙嵩山崇福宮に除せられ、嘉定十三年に卒した。諡は文節。