出自と初期の経歴
- 李璧、字は季章。眉州丹稜の人。父の李燾は国史を典掌した。璧は幼くして英悟、日に万余言を誦し、周必大はその文を見て「これは謫仙の才である」と評した。孝宗がかつて李燾に「卿の諸子の誰が用いられるか」と問い、燾は璧を推した。璧は父の任により入官した後、進士に登第し、召試を経て正字となった。
- 寧宗即位後、著作佐郎兼刑部郎、権礼部侍郎兼直学士院となる。当時、韓侂胄が国政を専らにして恢復(北伐)を建議し、宰相の陳自強は侂胄を平章国事とするよう請い、璧が召されて制文を起草した。礼部尚書の蕭逹と典礼を討論し、侂胄を三日に一度朝し丞相の上に序班させることを定めた。
使金と開戦をめぐる諫言
- 璧は金へ使いする命を受け、揚州を経る途中、忠義の人・朱裕が宋の帥に協力して漣水を襲撃し、金人が激怒した。璧は朱裕を梟首するよう請い、詔がこれに従った。璧は燕京に至り、金人と肝胆を披瀝して語り合い、金人の疑いは即座に解けた。
- 帰国すると侂胄の用兵の意はますます鋭く、璧は「進取の機はよく発してこそ必ず至る。軽々しく出て苟且であってはならない」と諫めた。やがて陳景俊が使いから戻り挙兵を強く賛成し、錢象祖は用兵に反対して侂胄の意に逆らい罪を得て貶された。璧は襄陽の形勢を論じ、敵が先に発するのを待ってから応じるべきだと深く憂慮したが、侂胄の意は快くなく、四川・荊淮に各々宣撫を建てて出師することとなった。璧は力では引き戻せないと悟り、上奏して「秦檜が和議を首唱して以来、父兄百世の讐を子孫の口に再び開くことができずにいる。今、廟謀が定まらず士気が衰えているのは、激昂しなければ盛り上がらないからだ。宜しく秦檜を亟やかに貶め、天下に讐恥を必ず復する志を示すべきである」と述べた。この上奏により秦檜は追って王爵を剥奪された。しかし議者は、璧が秦檜の「無君」の罪を論じず、その「主和」のみを指摘したのは、公論のようでいて実は侂胄の用兵の私意に迎合したものだと評した。
- 当初、侂胄は葉適に直学士院として出師の詔を起草させようとしたが、葉適が従わなかったため璧に命じた。これにより璧は権礼部尚書に進んだ。侂胄は開戦後の敗戦(喪師)を経てようやく蘓師旦に誤られていたことを悟り、ある夜璧を招いて酒を酌み交わした。酒が師旦の事に及ぶと璧はその過ちをやんわりと指摘し、侂胄の意向をうかがって「師旦は権勢を恃んで権力を招き、明公に謗りを負わせている。竄謫しなければ天下に謝ることができない」と極言した。師旦は貶官に処せられた。璧はさらに郭倬・李汝翼が軍を誤り国を誤った罪を誅すべきだと論じ、参知政事を拝した。
和議の模索と誅侂胄
- 金が使いを遣わして和を求める意を微かに示し、邱崈がこれを朝廷に伝えた。璧は邱崈に書を送り、小使を派遣して金帥に書を送らせ和を求めさせた。金帥の返書は用兵の首謀を侂胄と指したため、侂胄は大いに怒り、和議の意を捨てた。璧は「張浚は討賊復讐を己が任としたが、隆興の初め事勢がまだ整わなかったため、権宜として和に就いた。もし社稷に利あるならば、一つに執着してはならない」と論じたが、侂胄は聞かず、張巌を邱崈に代えて任じた。璧は力争して「邱崈は素より人望がある」と述べたが、侂胄は色を変えて「今の天下には邱崈が一人あるのみと言うのか」と応じた。
- 呉曦が蜀に拠って王を称すると、楊巨源・安丙がこれを誅した。事が聞こえると璧は重臣を宣撫使とするべきだと議し、制置使の楊輔を宣撫使に推薦し、安丙をその補佐とすることを提案した。安丙が楊巨源を殺した後、輔は変が起こることを恐れ、書をもって劉甲を自らの代わりに挙げた。侂胄は輔が事を避けていると疑ったが、璧は「孝宗は呉璘の重病を聞いて汪応辰に権宣撫使を命じ、蜀の職事を安んじたという故事がある」と述べ、そこで劉甲を権宣撫使に任じることとなった。
- 方信孺が使いから帰り、金人が侂胄を縛って送ることを望んでいると伝えると、侂胄は激怒し、用兵の意はますます急となった。璧は共に政に当たっていたが、ある者が「早く去って侂胄と禍を分かたぬように」と勧めると、璧は「国はすでに病んでいる。私が去れば誰がこれを謀るのか」と答えた。礼部侍郎の史彌逺が侂胄を誅する謀を密旨をもって璧と錢象祖に告げた。象祖は上奏して審議したいと思ったが、璧は「言を留めれば漏れるおそれがある」として、ついに侂胄は誅せられた。
- 璧は同知枢密院事を兼ねたが、御史の葉時が璧を「反復詭譎」と論じたため三秩を削られ撫州に謫居した。後に輔臣が侂胄誅殺の事に璧が実際に関与していたことを述べたため、自便とされ、官を復し、洞霄宮の提挙となった。しばらくしてまた御史の奏により三秩を削られ祠を罷免された。
遂寧府での乱平定と晩年
- 四年を経て端明殿学士・知遂寧府に復したが、到着前に潰兵の張福が益昌に乱入し、王人を殺害し、閬・果両地を掠奪し、遂寧に至った。璧は檄を伝えてこれを諭すと、張福らは檄を読んで涙を流し、甲を解いて降ることを約した。ちょうど官軍が到着し賊を挑発したため、賊は憤って城を尽く焼いたが、府治を顧みて「李公が朝夕ここに来て住むのだから、これを毀すな」と言った。璧は大将張威に馳せて書を送り、嘉定・黎雅の砦の丁牌手を召集して合戦させるよう命じた。威は夜、人を遣わして「賊の塁は堅く破れない。死士を選んで梯を用い登り、火攻めにする」と告げてきた。璧は「そのようにすれば必ず多くの士卒を殺すことになる。まず賊の水汲みの道と糧道を断ち、食を得られなくすれば、自ずと擒にできる」と答え、長囲の法を授けた。威はこの謀を用い、賊はついに平定された。
- 璧はまもなく病を理由に祠を求め、嘉定十五年六月に卒した。資政殿学士に進んで致仕、諡は文懿。璧は学を渇望するように好み、群経百家をあまねく捜し抉り遺すことなく、典章制度に特に精通し、文は俊逸であった。著書に『鴈湖集』百巻、『消塵録』三巻、『中興戰功録』三巻、『中興奏議』若干巻、『内外制』二十巻、『援毫録』八十巻、『臨汝閑書』百五十巻がある。璧父子と弟の□(底本原文は実体参照〈&KR1033;〉で表記され、字形不詳。李燾の子で璧の弟にあたる人物の名と考えられる)は皆文学をもって知られ、蜀の人々は父子を三蘇(蘇洵・蘇軾・蘇轍)に比した。