宋史卷三百九十七 列傳第一百五十六 劉甲
劉甲は字を師文といい、永静軍東光の人、元祐宰相劉摯の後裔。呉曦の蜀での謀反をいち早く朝廷に報告し、興元府知事・宣撫使などを歴任して蜀の軍政を整えた。嘉定7年(1214年)卒、享年73、「清恵」と諡された。
経歴
- 劉甲は字を師文といい、先祖は永静軍東光の人、元祐宰相摯の後裔。父の著は成都漕幕、龍游に家した。甲は淳熙2年進士、累官して度支郎中に至り、樞密院検討兼国史院編修官実録院検討官に遷る。金への使で燕山の伴宴の際、完顔某の名が仁宗の諱に触れることを甲は力めて指摘し、完顔は名を改めた。紹興後、出疆で忌日に遇うと辞宴するのが慣例(秦檜が定めた)であったため、甲は9月23日の金宴を宣仁聖烈后の忌日を理由に辞退した。
- 司農少卿に除せられ太常に進み権工部侍郎に擢せられ同修撰に進み、寶謨閣待制知江陵府湖北安撫使に除せられる。甲は「荊州は呉蜀の脊、高保融が分流した江水を北海として瀦していた、太祖はかつてこれを決壊させたが、これは江陵の要害を保つためであった」として、遺址に沿い40里を浚築した。
- 廬州知事から程松が四川宣撫使、呉曦が副として任じられた際、甲は興元府知事利東安撫使に。蜀口の師が敗れ、金が西和・成州を陥し曦は河池県を焼き、既に姚淮源を通じ四州を金に献じていた曦は金から蜀王に封じられた。甲はこの時漢嘉にあり未着任であった。金は大散関を破り、興元都統制毋思は重兵で守っていたが曦が密かにその戍を撤去したため金は板岔谷から関後に回り込み、思は身一つで免れた。甲は朝に急を告げ両宣撫司の協力を請い、松は逃亡を図ったが甲は固くこれを留め、便宜で沿辺制置を兼ねる檄を受けた。曦は後軍統制王鉞・準備将趙観を遣わし書を甲に届けたが甲は大義を援いて拒み病と称した。曦は弟の旼を遣わし面会を求めたが甲は叱って去らせた。甲は顔真卿の河北の故事に倣い自ら朝に帰ろうと図り、二兵に帛書を持たせ参知政事李璧に変を告げ「呉総を興元に右職で入蜀させれば即日瓦解する」と提案させた。
- 曦が僭王した際、甲は官を去った。朝廷は久しく曦の反状を微かに聞くのみで、韓侂胄もまだ信じていなかったが、甲の奏が至ると朝廷は震駭し、李璧が帛書を進呈すると上は「忠臣」と称した。甲は行在に召され、呉総が学士として鄂州知事に赴き招諭に当たった。復命の帛書には「致仕の請は許し難い、既に赴行在の指揮は降った、しかし朝廷は既に金と通和し襄漢では大捷、北兵は既に渡江して去った、蜀は遠く未だ詳らかでない、事宜を審らかに区処せよ」とあり、二兵は補官された。
- 甲は舟行で重慶に至った時、安丙らが曦を誅殺したことを聞き漢中に還った。上奏し待罪、詔で任地に還るよう促され、叛臣の子孫族属および附偽の者の公論による処罰を奏した。折しも宣撫副使安丙が楊巨源を功に自負していたことから密かに除こうとした(詳細は巨源伝にあり)。巨源死後、軍情は測り難く、朝廷は甲を宣撫使に、楊輔にも同じく請うたが輔は避事を疑われた。李璧が「昔、呉璘が病んだ時、孝宗はかつて密かに汪応辰に権宣撫司事を継がせた、璘死後応辰は即日印を領し軍情は安んじた、これが的例だ」と説き、密劄で甲に命じられた。甲はこれを鐍藏しておいたところ、まもなく金が鶻嶺関から金崖に進屯した際、甲は分兵して諸関を守らせ潼川の戍兵を截り饒風で待ち構え、金は備えを知って引き去った。
- 侂胄は甲の精忠を謝し寶謨閣学士・衣帯鞍馬を賜った。この年、和議が成立し、朝廷は彭輅と丙が不和と聞き甲に書で問い、また丙に諸軍の減汰を過度にせぬよう諭させ、蜀人才の登用も楊輔召還以来、西辺の諸事は朝論の多くが甲の判断に委ねられ、人はこれを知らなかった。紹興中、蜀軍の食糧不足から科糴が創始され民を苦しめた。孝宗はこれを聞き総領李蘩に本所の銭で招糴させたが不足を憂い、勧糴の名がこの時始まった。李昌図が総計として金梁の守倅に収糴させ勧糴を罷めたが、宣総司は金・洋・興元三郡で小麦30万石を勧糴させたため、甲は総所に李蘩の成法に照らして措置するよう請い従われた。翌年宣撫司は廃され利東西は一帥に併合され興元に治め、甲は潼川府知事に移された。
- 安丙が同知樞密院事、董居誼が制置使となった際、甲は寶謨閣学士知興元府利路安撫使節制本路屯駐軍馬に。居誼がなお着任前であったため甲は四川制置司事を権任した。先んじて大臣が蜀を撫する際、諸将は互送礼という名目で実質賄賂を交わす慣例があったが、甲は令を下しまずこれを罷めた。丙が立てた茶塩柴邸の類も廃止し、皁郊の博易鋪場を沔戎司に還し、呉氏荘の嵗収租4万斛と銭13万を総計に禆した。丙が増した田税を属吏に討論させ、嵗に160万緡と米麦1万7千石を減らして辺民を感泣させた。嘉定7年(1214年)官で卒、享年73。甲は幼くして孤児となり多難を経て、母の病に股を刲いて薬とした。平生「私に他の長所はない、ただ実地を踏むこと」と語り、昼の行いを夜に必ず書き付け「自監」と名付けた。文は平淡、奏議10巻がある。理宗は「清恵」と諡した。