宋史卷三百九十七 列傳第一百五十六 項安世
項安世は字を平父といい、括蒼の人の後裔で江陵に家した。光宗の孝宗への朝見問題や財政の緊縮を上奏し、朱熹の留任も求めた。開禧の用兵では呉獵のもとで宣諭使を務めたが不和により罷免された。嘉定元年(1208年)卒。著書に『易玩辞』がある。
経歴
- 項安世は字を平父といい、先祖は括蒼人、後に江陵に家した。淳熙2年進士、召試祕書正字に除せられる。光宗が病で重華宮に朝せぬことに対し、上書して「陛下の仁は天下を覆えるが庭闈の間に愛を施せず、量は羣臣を容れられるが父子の際に忍べません、身は六軍萬姓の上に寄せられていますが、父子あって後に君臣がある。陛下が自ら父子の情を思慮すれば、無理に断つべき理は本来ない、愛敬の念は必ず油然たる時があるはず、聖心が一たび回れば日を択ぶ必要もない、早に行けば省、暮に行けば定と言うだけで、即日就駕すれば旋乾転坤は返掌の間にある」と論じたが、この疏は不報であった。宰相留正に書を送り去ることを求めた。
- まもなく校書郎に遷る。寧宗即位後、求言の詔に応じ「管夷吾が斉を治め諸葛亮が蜀を治めた立国の本は『量地以制賦、量賦以制用』に過ぎない。陛下は輿地図を披いて今の郡県の数が祖宗時と比べどうか、秦漢隋唐時と比べどうか自ら知るべき、必ず狭く少ないことを知られよう。版曹に一嵗の賦入の数を具えさせ、祖宗盛時の東南の賦入がどれほどか、建炎紹興以来乾道淳熙まで増した分はどれほどか。内外羣臣に一嵗の用を具えさせ、人主供奉好賜の費・御前工役器械の費・嬪嫱宦寺廩給の費・戸部四総領養兵の費・州県公使迎送請給の費がどれほどか。陛下は必ず侈で濫であることを自ら知られよう。用が賦を量らずに侈濫に至れば内外上下の積は空にならざるを得ず、天地山川の蔵は竭きざるを得ない、忍痛耐謗して一挙に更張しなければ終わることを知らない」と論じた。今日最も重く省くべき費用は兵であるとし、土兵・屯兵を用いれば省けると論じ、次に宮掖の費を挙げ「兵は敵国に備えるため省き難く、宮掖は一身の私で愛して省み難い、しかし省かれないのは他人の事、省まないのは陛下の事、宮中の嬪嬪・宦寺・器械・工役はすべて陛下の事であり、陛下が肯んじれば省ける、宮中が既に省かれれば外廷の官吏・四方の州県も風に従って省き競って倹に趨る、簡樸が風となれば民志は堅定し民生は日々厚くなり、水旱蟲蝗の災があっても活きられる、国力は日々壮んになり夷狄盗賊の変があっても対応できる、祖宗の業を復し人神の憤を雪ぐこともただ我らの為すところにある」と論じた。
- 朱熹が召され闕に至ったがまもなく祠に付された際、安世は館職を率いて上書し留任を求めた。「御筆で熹を宮祠に除するのは宰執・給舎を経ずに直行の使者に熹の家へ送らせる異例な処置、聖意は熹の賢を明知しながら去らせるものと推測される、宰相がこれを見れば必ず執奏し、給舎がこれを見れば必ず繳駁するはず、だからこそこのような駭異変常の挙をなされたのだろう。しかし人主が患うべきは賢を知らぬことなのに、明らかにその賢を知りながら明らかにこれを去らせれば、天下に賢を再び用いないと示すことになる。人主が患うべきは公議を聞かぬことなのに、明らかに公議の不可を知りながら明らかにこれを犯せば、天下に公議を再び顧みないと示すことになる。まして朱熹は本来一庶官として二千里外にあったのに、陛下は即位数日で号召し従官の位を与え経幄に侍らせた、天下は皆初政の美事とした。それが供職わずか40日で内批により逐われれば、満朝は驚愕し所措を知らない。陛下が紀綱を謹んで守り公議を忽せにせず、朱熹を復留させ聖学を輔けさせられれば、人主は公議を失わず、公議もなお存する」と論じたが報われなかった。
- まもなく言者に劾せられ重慶府通判に出されるが赴任前に偽党として罷免された。安世は素より呉獵と親しく、二人とも学禁で久しく廃されていたが、開禧の用兵で獵が起用され荊渚帥となり、安世も内艱の起復で鄂州知事となった。まもなく淮漢の師が潰え、薛叔似が怯懦を理由に侂胄に嫌われた際、安世は侂胄への書の末に「たまたま客を江頭に送り酒を飲んで半酔い、字も上手く書けません」と記すと、侂胄は大いに喜び「項平父はこれほど閑暇か」と語り、戸部員外郎湖廣総領に除した。
- 叔似罷免後、金が徳安を囲み危急を告げると諸将は属す所がなく、安世は朝命を待たず兵を遣わし囲みを解かせ、高悦らが金と力戦して万戸周勝を捕獲した。安世はその功を朝に報告した。獵が叔似に代わり宣撫使となると、安世は宣諭使として蜀に入り、朝命は安世に権宣撫使を命じ太府卿に昇進させた。宣撫幕官の王度は呉獵の客であったが、獵と安世は素より友好であった。安世が招いた「項家軍」の兵に不逞な者が多く擄掠を好んだため、獵はその首謀者を斬った。安世はこれを恨み、王度を大別寺で斬った。獵はこれを朝に訴え、安世は職を免ぜられた。後に直龍圖閣として湖南転運判官に任じられたが、赴任前に台章により職を奪われ罷免された。嘉定元年(1208年)卒。著書『易玩辞』ほか多くが世に行われた。