宋史卷三百九十五 列傳第一百五十四 王柟

経歴

  • 王柟は字を汝良といい、大名の人。祖の倫は同簽書樞密院事、北で使して死んだ。孝宗はその子孫の未禄者3人を訪ね官を授け、柟もその一人であった。通州海門尉に調せられ、軽舟で海に入り劇賊小呉郎らその徒17人を捕らえたが、賞を受けなかった。
  • 韓侂胄が恢復を起こして兵端を開き、天子は好を継ぎ民を息らせることを思い7度使者を遣わすが成らず、続いて方信孺が遣わされ成説に近づいたが、事が侂胄に忤って罪を得たため、再び使者を遣わそうにも廷にはこれを担える者がなかった。近臣が柟を薦め、監登聞鼓院に擢せられ假右司郎中として国書を持ち金へ北行した。柟は帰って母に報告すると母は「あなたの祖父は忠に死んで国に殉じた、だからその恩は子孫に及んだのだ、あなたも励んでほしい、私が老いていることを念にかけるな」と語り、柟は命を拝した。急ぎ敵所に赴くと金将烏骨論ら4人が並んで座り「韓侂胄が貴顕になってどれくらいか」と問い、柟は「既に10余年、平章国事はわずか2年」と答えた。「金がこの人を去らせたいならどうか」柟「主上が英断されればどうして難しいことがあろうか」、四人は互いに顔を見合わせて笑った。完顔天寵という者が袖から文書を出し「王柟は韓侂胄の書を持つが実は朝廷の旨で元帥府に議和のため来た」と示すと、金人はここに侂胄が既に誅殺されようとしていることを知り、和議はここに決した。
  • 柟は金の牒を持ち帰り、侂胄の首を函にして淮陕の侵地と交換することを議し従われた。起居郎許奕を通謝使とし、柟は通謝所参謀官となった。柟は軍前から再び還り、「和約の成立は皆、方信孺が険阻を嘗め再三命を奉じた功による、人が成した事を因って自ら成すのは忍びない、信孺の功を録しその過を蠲すよう」乞うた。朝論は柟が人を掩わず自らを揚げなかったことを多とした。軍器少監守知楚州、累官して太府卿に至り、告帰し、右文殿修撰知太平州に加集英殿修撰致仕、卒、贈寶章閣待制。

史論

  • 樓鑰は渾厚正大、李大性は直言してその先祖に恥じることがなかった、任希夷は諡号を先儒に請うた功がある、徐應龍は経筵で禆益するところが多かった、荘夏・王阮・王質は皆為すべき才を負いながら結局奉祠去国した。陸游は学が広く名望が隆かったが晩年に韓侂胄のため堂記を著したことは君子がこれを惜しんだ、しかし春秋の義は賢者に完全を求めるものである。方信孺は年少で使を奉じ意気をもって金人を挫き、王柟は北から帰って信孺の功を録すよう請うた、長者というべきである。