宋史卷三百九十三 列傳第一百五十二 陳騤

陳騤(字は叔進、台州臨海の人)は紹熙年間に参知政事・知樞密院事を務め、光宗に重華宮への朝謁を促す上奏を重ねた官。趙汝愚とは終始不和であった。嘉泰三年、七十六歳で卒し少傅・文簡の諡を贈られた。

経歴

  • 陳騤は字を叔進といい、台州臨海の人。紹興24年試春官第一だが、秦檜が孫の秦塤を上位に置いたためこれに次いだ。将作少監、祕書少監兼太子諭徳兼太子尹臨安。太子が細務に関わりすぎることを諫めた(「儲宮が下で細務に親しみ専ら学問できないのは徳を毓う所以ではない」)、太子は驚いて崔淵を辞退させた。外戚張説の推挙で祕書郎兼金部郎に除せられたが詞頭を封還、まもなく贛州知事、秀州に移り召還されると「陛下が鋭意で治を図る中、羣下は自媒を急ぎ強兵理財の計を争って献じるが職を任せても効果が乏しい、邪諂の路を杜ぐべき」と論じた。
  • 祕書監兼崇政殿説書、淳熙5年試中書舎人兼侍講同修国史。上は晉宋以下の興亡理乱の大端を採って一書とすることを図り「卿と周必大のみがこれを任せられる」と述べたが、言者がこれを忌み攻撃し章は留められた。太平興国宮提舉、寧国府・太平州知事を経て集英殿修撰加、言者の弾劾で袁州知事。光宗受禅後、召試吏部侍郎、紹熙元年同知貢挙兼侍講。
  • 紹熙2年(1191年)春、雪雷の際に時政得失を求める詔があり、騤は30条を疏した(宮闈の分が厳しくなければ権柄が内に移る、内謁の漸を杜がねば明断が息む、台諫が当路に阿れば私党が植う、将帥に近習を咨れば賄賂が行われる、讜論を求めねば過失が彰る、旧章を謹まねば取捨が誤る、宴飲不時なれば精神が昏む、賜予に節がなければ財用が竭きる、いずれも時病に切実)。礼部尚書権に進み、同知樞密院事、参知政事。光宗が病により重華宮に朝せず会慶節の祝賀にも赴かなかった際、騤は三度上奏、廷臣も百を数える上疏を上げ、上は感悟し冬至日に重華に朝じた。紹熙5年(1194年)正月朔旦、慈福宮で夀を称した。孝宗崩御に際し光宗が喪に臨まなかった際、儲位を正すことを請い、七月三省事を摂行した。

寧宗即位後

  • 寧宗即位後、知樞密院事兼参知政事。趙汝愚とはかねて不和で堂を同じくして語ったことがなかった。汝愚が劉光祖を侍御史に除そうとした際、騤は「劉光祖はかねて臣と隙がある、光祖が台に入るなら臣は避けたい」と奏し、汝愚は驚いて中止した。韓侂胄が伝言の勞を恃んで密かに国柄を竊んだ頃、吏部侍郎彭龜年が侂胄が国患となることを論じたが聞かれず、龜年と侂胄は共に祠を請うことになった際、騤は「閤門から経筵を去らせて天下に何を示すのか」と述べたが、結局龜年は外任に補された。侂胄は「彭侍郎が好官を貪らないのはもとより、元樞(騤)も好人であろうとしているのか」と人に語ったという。
  • 資政殿大学士として外任、辞して洞霄宮提舉。慶元2年(1196年)婺州知事、告老し観文殿学士提舉洞霄宮。嘉泰3年(1203年)卒、享年76、少傅を贈られ「文簡」と諡された。