宋史卷三百九十二 列傳第一百五十一 趙汝愚

漢の恭憲王元佐七世の孫、饒州餘干県の人。進士第一に及第し、光宗・寧宗の交代に際し憲聖太后(呉太后)を奉じて寧宗擁立を主導した右丞相。まもなく韓侂胄との対立から罷免・配流され、赴任途上で病没した。子の崇憲は父の名誉回復に尽力し、地方官としても恵政を行った。

年表(2件)

趙汝愚――父善応の孝行

  • 漢の恭憲王元佐七世の孫、饒州餘干県の人。父善応は字彦逺、修武郎・江西兵馬都監。純孝で知られ、親の病に刺血して薬に混ぜ、雷を恐れる母のため雷が鳴るたびに駆けつけた。困窮者への施しを惜しまず、尤袤・陳俊卿に「古の君子」と評された。

趙汝愚――科挙と初任

  • 「丈夫青史に名を残さねば生きた甲斐がない」との志を抱き、進士第一に及第した。秘書省正字を経て、外戚張説の枢密院登用に反対して同僚と共に辞去を願い出た。祖母の訃報により帰郷したが罪を問われなかった。

趙汝愚――孝宗朝の建策

  • 吏部郎・太子侍講を経て、宦官陳源の兵権関与に反対し孝宗の共感を得た。枢密院文書の秘匿慣行を批判し、四川制置使・成都知事として呉氏一族の蜀兵権独占の危険を指摘、羌族の反乱も鎮圧した。

趙汝愚――光宗朝の内禅工作

  • 光宗即位後、吏部尚書として召還されたが同知枢密院事就任を巡り監察御史汪義端の讒言を受けた。光宗と重華宮(太上皇孝宗)の不和を調停し、光宗の病が重篤化する中、留正らと共に嘉王(後の寧宗)の冊立を画策した。

趙汝愚――寧宗擁立

  • 孝宗崩御後、光宗が服喪できない異常事態に際し、留正が朝廷を去った後、趙彦逾・韓侂胄・関礼らと共に憲聖太后(呉太后)に働きかけ、太后の垂簾のもと嘉王を即位させた(寧宗)。留正を丞相に復帰させ、自らは右丞相を固辞して枢密使に就任した。

趙汝愚――韓侂胄との対立

  • 定策の功を誇る韓侂胄と対立し、朱熹の進言を軽視して自ら制御できると誤断した。韓侂胄が台諫を党類で固め、陳傅良・呉獵・劉光祖らが相次いで斥けられる中、趙汝愚も李沐の弾劾により右丞相を罷免され、福州知事に左遷された。

趙汝愚――流罪と死

  • 太学生楊宏中らが伏闕して趙汝愚の忠を訴えたが処罰され、慶元二年(1196年)胡紘の讒言(謀反の企てとする誣告)により永州安置に処せられ、赴任途上の衡州で病没した。天下がその冤罪を悼んだ。没後、党禁が解け資政殿学士を追贈、韓侂胄誅殺後に忠定と諡され、太師・沂国公を追封、理宗代に寧宗廟に配享、福王を追封された。

崇憲(趙汝愚の子)――科挙と初任

  • 字履常、淳熙八年(1181年)対策で第一となり、孝宗に「汝愚の子か」と称賛された。趙汝愚の蜀赴任に従い機宜文字を務め、父の非業の死後は門を閉ざして仕えなかったが、後に復官を勧められ知南昌県事として荒政に功績を挙げた。

崇憲――父の名誉回復への尽力

  • 父の冤罪の是正と偽史(韓侂胄派による史書改竄)の訂正を繰り返し上奏し、趙師召・蔡璉らの罪を追及した。史官による直筆の欠如を批判し、龍飛事実の重修に貢献した。父に太師・沂国公が追贈された。

崇憲――地方官としての治績

  • 江州知事として和糴の負担を永久に免除し、瑞昌県の茶引銭の負債を半減させた。静江府・広西経略安撫使として税の不均衡を是正し、辺境の蛮族の懐柔と防備を両立させた。父同様に篤孝で、喪に服す間は酒肉を絶った。

史論

  • 論に曰く、大臣が危疑の地に処して禍難を免れる者は稀である。周公が成王を輔けた際、四国の流言に遭い居東の憂いを免れなかった例のように、趙汝愚は宋の宗臣として周公には及ばぬまでも、孝宗崩御・光宗病篤という大喪無主の危機に際し、身を顧みず大計を定めて名徳の士を召し、寧宗の新政を輔けた功績は大きい。しかしまもなく韓侂胄に構陥され、二度と復帰することなく世を去った。天が宋を眷顧することが周に及ばなかったことが、この事に表れている。汝愚の父は純孝で知られ、子の崇憲もまた家法を守り恵政を行った点で、世々その美を継いだと言えよう。