宋史卷三百八十七 列傳第一百四十六 黄洽

出自と諫言

  • 黄洽は字を徳潤といい、福州侯官の人。隆興元年(1163年)太学生として春官試に及第、第二人となり、旧例により臨軒賜第は行われなかったが紹興府観察判官に任じられた。銓選で前例通り扱われず、宰相の陳俊卿が上に取り成し、国子博士となった。
  • 太学国子博士・樞密院編修官・福州通判を経て太常丞に召された。孝宗の求治の意欲に応じ「事は儲才を第一とし、士卒はその心を練り、軍政は預め謀るべき」と論じた。祕書郎・著作郎を経て、上に文学の要職への期待を語った。
  • 右正言として「諫臣は具員でなく諫諍を職とすべき」と論じ、侍御史として旱害の際に「陛下が夙興し民を思う心を持てば天も助けるだろう」と論じ、荒政の按視を巡って常平司の職分の明確化を求めた。
  • 兵民の権が一人に集まる弊(藩鎮偏重の失)を指摘し、辺境の主兵官が郡守を兼ねることに反対した。右諫議大夫として、上の武を好む姿勢を『大象』の卦「君子は言語を慎み飲食を節す」を引いて諫めた。

参知政事として

  • 経筵で「宰相は代天理物すべきで、君は疑わず重んじ、宰相は公心を尽くすべき」と論じ、上は「卿は良金美玉のごとく渾厚無瑕、天が卿を朕の弼とするのだろう」と評した。
  • 御史中丞として推挙の請託が宰執台諫の門に集まる弊を指摘。潭州の彊盗の刑罰の議論では、「彊盗は他の盗と異なり、髠役だけでは3年後に再犯する」と厳罰を主張した。
  • 参知政事として、人事推薦を上申し「五十年これほどの人事はなかった」と評された。知樞密院事に累進、資政殿大学士知隆興府を経て、光宗受禅後にも「用人こそ万世不易の論」と重ねて主張した。
  • 提挙洞霄宮を経て慶元2年(1196年)致仕。「居家不欺親、仕不欺君、仰不欺天、俯不欺人、幽不欺鬼神」を信条とし、慶元6年(1200年)7月薨去、享年79。金紫光禄大夫を贈られた。質直端重で大臣の風格があり、両朝で名臣と称された。文集・奏議85巻がある。