宋史卷三百八十六 列傳第一百四十五 范成大
范成大は字を致能といい、呉郡の人。紹興24年(1154年)進士。地方官として義役制度を創始し水利を整備した。金への祈請国信使として国書に受書式改正を密かに書き入れ、金主・太子の前でも節を屈さず全節を保って帰国した。号は石湖、『石湖集』『攬轡録』『桂海虞衡集』などの詩文で知られる。
年表(4件)
- 紹興24年1154年進士に及第する
- 隆興元年1163年正字に任じられる
- 紹興2年1191年資政殿学士から大学士に進む
- 紹興4年1193年薨去する
出自と地方官
- 范成大は字を致能といい、呉郡の人。紹興24年(1154年)進士、戸曹監和劑局を経て隆興元年(1163年)正字、著作佐郎に累進。処州知事として、義役制度(家の貧富に応じ金を出し合い田を買い役夫を助ける仕組み)を創始し、20年輪番の制を定め、その法は諸路に頒布された。
- 通済堰の修復を行い、水利で20万畝を灌漑。禮部員外郎兼崇政殿説書として、乾道令の絹価による贓罪の見積もりが過大であることを指摘し是正させた。
対金使節としての気概
- 隆興の和議で受書の礼が定まらなかったことを孝宗が悔いていた中、起居郎、資政殿大学士充金祈請国信使として、陵寝返還と受書式の変更を求める使命を帯びた。国書に受書式の改正を密かに書き入れ、金の廷で慷慨として奏上したところ、金主は「これは献書の場ではない」と驚き、太子は成大を殺そうとしたが越王がこれを止め、成大は全節を保って帰国した。
- 中書舎人として崔寔『政論』を上に賜った際、刑罰の過重を批判。張説の樞密院任命に反対し詞頭を7日留めたが結局は寝(とりや)められた。
地方官としての改革、晩年
- 静江府知事として、広西の塩利をめぐる漕臣の専横を是正し鈔塩法の復活で市価抑制を実現。広州の塩商の再販売許可も自ら銀銭を出して助成した。馬の規格変更にも反対し互市の安定を優先した。
- 敷文閣待制四川制置使として、吐蕃・青羌の侵攻に対し教閲・堡砦修築・団結法を整備し、黎州の防衛を強化。義士(民兵)の都統司による使役に反対し旧法を守らせた。蜀の名士(孫松壽・樊漢広ら)を厚遇し、人材登用に努めた。
- 参知政事に拝したが2か月で言者に論じられ罷免、知明州として海物の献上を廃し、端明殿学士知金陵、旱害時の軍儲米の移送・減租で救済。水賊徐五を捕らえ処刑した。
- 病により資政殿学士、紹興2年(1191年)大学士加増、紹興4年(1193年)薨去。文名高く詩に優れ、陳俊卿の推薦で内制を掌った文士の一人となった。号は石湖、『石湖集』『攬轡録』『桂海虞衡集』が世に行われた。
史論
- 劉珙は忠義の世家に生まれ、纊(臨終)に及んでも讐恥を雪げなかったことを深く恨みとした。王藺は顔を犯して忠諫し、剛腸で悪を嫉んだ。趙鼎・張浚が非罪で遠謫された際、朋友交際が絶える中、王大寳だけがなお従い遊び、権姦を斥けるにあたっても顧忌がなかった。金安節は秦檜を拒み龍大淵・曽覿を排し金石のごとく堅く、孤立無党で死生禍福に少しも心を動かさなかった。金軍が大散関を犯した際、王剛中は単騎で夜馳せ呉璘を起たせ一戦で敵を退け、范成大は北庭に書を致し危うく殺されかけたが命を辱めなかった。ともに古の大臣の風烈があり、孔子の言う「歳寒くしてしかる後に松柏の凋むに後るるを知る」に当たる者たちである。黄祖舜が楊愿の恩を奪い秦熺の秩を褫い檜の悪を死後にも誅したこと、李彦頴が事を論ずるに激烈で忠藎を披露したことも尚ぶべきである。