宋史卷三百八十六 列傳第一百四十五 王大寳

出自と趙鼎・張浚との交誼

  • 王大寳は字を元亀といい、先祖は温陵から潮州に移った。政和間(1111-18年頃)辟雍に貢せられ、建炎初年廷試第二。禄が養にかなわず病と称して帰郷、数年後、登聞鼓院・台州崇道観を管勾。
  • 趙鼎が潮州に謫された際、日々従い論語を講じ、鼎は「私がここに居る間、平時に推薦した者で来る者はいない。君だけが従って遊んでくれる」と嘆じた。連州知事として、張浚も謫居中の栻に講学させ、大寳は動じずに交わり続けた。浚が経制錢を大寳に与えようとした際、「君に迷惑がかかりはしないか」と気遣った逸話がある。
  • 連・英・循・恵・新恩の6州の月輸免行銭の減免を建言し高宗に評価された。袁州知事として『詩書易解』を進呈、国子司業兼崇政殿説書として月樁銭・折帛銭の弊を指摘し是正させた。

諫議大夫としての恢復論

  • 温州知事、福建刑獄提点として臨漳の峻嶺蔡岡の盗賊対策として道を切り開いた。広東刑獄提点、孝宗即位後の禮部侍郎として「国是を明らかにして果断に行うべき」と論じた。
  • 右諫議大夫として朱倬・沈該の罪を論じ、汪澈の荊襄督師の不能節制を弾劾。移蹕論に対し「今の勢いはまだ未可、しばらく時を待つべき」と論じ、張浚の督府再起には力を尽くして賛成したが、符離の敗により群議が沸騰する中「果断持重こそ横議を鎮める」と主張した。
  • 湯思退の督府罷免・講和推進に対し「恢復より大なるものはなく、金より讐うべきものはなく、攻守より難しいものはなく、用人より審らかにすべきものはない」と反対したが、兵部侍郎に転じた。胡銓の推薦もあったが結局致仕を求めた。

晩年

  • 督府が罷められ辺防が撤去され金が再び侵攻すると、思退の都督起用に反対し辞さぬまま思退は貶され、中外は大寳の先見を惜しんだ。乾道元年(1165年)致仕を取り消され禮部尚書に召還され、理財の道は本を務め末を抑えるべきと論じた。
  • 右正言の程叔達に免行銭復活論を非とされ、旧職提挙太平興国宮に戻り、中書舎人の閻安中の留任要求も程叔達に併せて弾劾され、致仕となり享年77で卒去。