宋史卷三百八十五 列傳第一百四十四 周葵
周葵(字は立義、常州宜興の人、?–1174年、享年77)は宣和6年(1124年)進士甲科。秦檜の専権下でも憚らず直言を続け、孝宗朝で参知政事に至った剛直の官。「自治を守るべき」との慎重論を貫いた。惠簡と諡された。
年表(2件)
- 宣和6年1124年進士甲科に及第した
- 淳熙元年正月1174年薨去、享年77
出自と諫言
- 周葵は字を立義といい、常州宜興の人。若くして力学し、鄉校から京師の太学に移り、その文が伝誦された。宣和6年(1124年)進士甲科、徽州推官を経て、高宗が臨安に遷った際、判官として境上の混乱を機敏に処理した。
- 陳与義の密薦により館職試を受け、高宗から「班からは卿の端正を評する声が多い」と評され監察御史、殿中侍御史に転じた。在職わずか2月で30余章を上奏し、宰相の不任責を指摘して高宗の顔色を変えさせたが、大臣への信頼と監督のあり方について高宗と論じ合い「この論は甚だ奇なり」と評された。
- 張浚の北伐議論に対し「存亡の機」として3章にわたり慎重論を唱えたが、大計を阻むと非難され司農少卿に左遷。趙鼎・陳与義の失脚後は執政を避け、江東提刑への異動も辞退した。
- 和議成立後に召還され「国には道があり、戦えば勝ち守れば固く和せば久しい。そうでなければ三者はいずれも人にあって我にはない」と論じた。太常少卿として、秦檜の専権下でも憚らず論を続け、内降の差除4件を批判し「仁祖を法とし杜衍を法とすべき」と主張して檜の不興を買った。
- 権戸部尚書の梁汝嘉の特賜出身を弾劾しようとした際、事前に情報が漏れ檜に先手を打たれ、周葵は起居郎に転出させられ密かに排除された。李光の吕広問館職擬任にも連座し、落職させられた。
金使への対応と参知政事
- 秦檜死後、直祕閣知紹興府に復し、権禮部侍郎兼国子祭酒として、科挙の考官の選定を厳正化するよう建言。侍御史の湯鵬舉に党派の一員として弾劾され知信州に出されたが、太学生が留任を訴え騒動となった。
- 太平州知事として水害対策(圩堤の修復120里)を実施し、婺州知事を経て、孝宗即位後、兵部侍郎兼侍講、龍大淵・曽覿の不正を指摘した。
- 金主亮の死後、張浚が渡淮策を進言した際、葵は「軽々しく動くべきでない」と反対し、李顯忠・邵宏淵の靈壁・虹二県攻略が失敗すると孝宗は葵の見識を認め参知政事に拝した。葵は「自治を守るべき」との立場を貫き、兼権知樞密院事として台諫の議和批判に対処した。
- 「自分がなぜこれほど辞去を請うか」との孝宗の問いに、葵は「宰相と論じて十のうち従わないこと七八、これでは心が愧じる」と答え、孝宗は「卿ほど直諒な者はいない」と応じた。李浩・龔茂良を推薦し用いられた。
- 郊祭の牛が斃れた際、春秋の故事を引いて郊祀の延期を建言し容れられた。虞允文・陳康伯が宰相になると求退し、資政殿学士提挙洞霄宮、知泉州を経て告老、大学士致仕。淳熙元年(1174年)正月薨去、享年77。正奉大夫を贈られ、後に太傅を累贈された。学問は伝注に泥まず「聖伝」を著し、詩20篇、文集30巻、奏議5巻がある。晩号は惟心居士、諡は惠簡。