宋史卷三百八十五 列傳第一百四十四 魏杞

出自と対金交渉

  • 魏杞は字を南夫といい、夀春の人。祖の蔭により入官、紹興12年(1142年)進士。宣州涇県知事、従臣の銭端礼の推薦で太府寺主簿、宗正少卿を経て、湯思退の和議推進の際に金への通問使に任命された。
  • 孝宗から「正名・退師・減歳幣・不発帰附人」の四条件を託され、十七事に条件付きで対応する権限を与えられた。金の大将僕散忠義・紇石烈志寧が国書の様式に難癖をつけ、商・秦の地割譲や帰正人の返還、歳幣20万を要求したが、杞は初めの条件を貫き、国書を書き直させた。
  • 忠義らはなお不満で山陽を攻め、宋の驍将魏勝が戦死する事態となったが、杞は「金が約に従わないなら金繒も贈るべきでない」と主張しつつ、礼物を携えて燕山に赴き、金の朝廷で「天子は神聖にして北朝が用兵しても必ず勝てるとは限らない。和すれば両国が福を享け、戦えば将士が犠牲になるだけ」と説き、金の君臣を沈黙させた。
  • 国書の「大宋」の文字を脅し取ろうとする金の企てを拒み、敵国の礼を正した。歳幣を5万減額させ、帰正人の送還も阻止して帰国。孝宗は「使金で辱命せず庶官から一年で宰相位に至った」と評した。

宰相として、晩年

  • 起居舎人・給事中・同知樞密院事を経て参知政事、右僕射兼樞密使に進む。降人の蕭鷓巴が職田を賜ったことに対する批判に「租は功養廉のために食むもので、奪うべきではない」と杞は擁護した。
  • 郊祀で冬雷の異変が起き、漢制に則り災異の責を負って左諫議大夫提挙江州太平興国宮に転じた。淳熙6年(1179年)、諫官の王希呂に貪墨を論じられ職を奪われたが、後に端明殿学士として祠禄を得て告老、資政殿大学士に復し、淳熙11年(1184年)11月薨去。特進を贈られ、嘉泰中(1201-04年頃)に諡を文節とされた。