宋史卷三百八十五 列傳第一百四十四 錢端禮

錢端禮(字は処和、臨安府臨安の人、?–1177年)は和議路線を支持し、湯思退の下で参知政事に進んだ官僚。皇長子鄧王の岳父という立場から専権を疑われ、財産60万緡の蓄財が暴露されて弾劾・降職された。淳熙4年(1177年)に元職に復して薨去し、忠肅と諡された。

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出自と和議路線

  • 銭端礼は字を処和といい、臨安府臨安の人。父の沈は潼川軍節度使。恩補官として紹興間、明州通判、直祕閣、右文殿修撰に累進し、外任での声望を高宗に評価された。臨安府知事、御史中丞の汪澈の推薦で権戸部侍郎兼樞密都丞旨となり、楮幣(紙幣会子)の制度を建言し六務に分けて出納を管理した。
  • 孝宗の張浚による北伐が符離で失利すると、湯思退が和議を唱え、端礼は「用兵の名があっても実がなく、怨みを買い事を生ずるだけで国益にならない」と奏し、思退はこれを大いに喜んだ。
  • 戸部侍郎韓仲通との財政論議で「恢復には中原の財賦が必要」との上の考えに対し、仲通は「恢復は必ずしもならず、まず現状の経費を検討すべき」と反論、端礼は仲通の言を支持した。思退と張浚の議論が分かれる中、思退が辞去しようとした際、端礼は留任を請い、符離の敗を戒めとして国是を早く決めるよう求めた。
  • 淮東宣諭使として実態を視察し「守備・治兵はいずれも名ばかりで実がない」と報告。この報告は張浚批判の材料となり、右正言の尹穡もこれを機に浚を弾劾し都督を罷免させた。

参知政事としての専横と失脚

  • 淮上に再赴し、遣使と発兵を並行させ、金書に脅迫的文言があっても和議を先に進めるべきと論じた。金帥の僕散忠義の分兵入寇の意図が明らかになると、湯思退への都督任命が思退の畏怯で実行できず、端礼が江淮軍馬参賛軍事として代行、端明殿学士簽書樞密院事兼権参知政事に進んだ。
  • 王抃を金への使者として遣り、商・秦の地の割譲、俘人の返還(叛亡者を除く)、紹興以来の叔姪の国という関係の維持、歳幣の減額などを取り決めさせた。
  • 皇長子鄧王の夫人が端礼の娘であったことから、参知政事の座を窺い、殿中侍御史の唐堯封に「帝姻を執政に任じるべきでない」と弾劾されたが上は不問に付した。刑部侍郎の王茀が端礼に付き「国是」論を主張して援護し、吏部侍郎の陳俊卿は「本朝には戚属を宰相にした例がない」と力を尽くして論じたため、端礼は俊卿を建寧府に出した。
  • 鄧王夫人が男子を生んだ際、恭王夫人李氏も先に男子を生んでいたが、恭王府直講の王淮が「恭王夫人の子こそ皇長嫡孫」と述べたことに端礼は不快感を示し、淮を邪説として斥けようとしたが、逆に淮の傾邪を指摘され資政殿大学士提挙徳夀宮に転じた。
  • 財産が60万緡に及ぶことが暴露され、侍御史の范仲芑に貪暴として弾劾され降職。淳熙4年(1177年)8月元職に復し薨去、銀青光禄大夫を贈られ後に諡を忠肅と改められた。孫の象祖は嘉定元年(1208年)左丞相となる。