出自と諫言
- 葛邲は字を楚輔といい、先祖は丹陽に居し後に呉興に移った。代々儒学の家柄で、高祖の密から邲まで五世で科第に登り、大父の勝仲から邲まで三世で詞命を掌った。幼くして機敏で、葉夢得・陳与義に国器と称された。蔭補で建康府上元丞となり、金人の江上侵攻の際、上元は敵の要衝にあって調度に忙殺されたが、乱れず処理し、留守の張浚・王綸に重んじられた。
- 進士に及第し、御史の蕭之敏の推薦で国子博士となり、州県の受納・鬻爵の弊を論じた。著作郎兼学士院権直、正言として「盈虚の理は未然に隠れ、治乱の分は忽せに生まれる。専ら天を畏れ民を愛することを先とすべき」と論じた。
- 徴榷の歳増の害を論じ、輦下都税務の茶塩の額が紹興間の1300万緡から乾道6年(1170年)後には2400万緡に増え、成都府の一務も4万8千緡から40数万緡に増加、四川の酒額は500余万緡に達したことを指摘。「租税に定数があっても暗耗が日増し折帛が増えれば民は窮する。原額の1倍を超えた茶塩酒税の新額を止め、官吏の増賞をやめるべき」と論じ、6事を献じた。
- 侍御史として救荒の3事を論じ、中書舎人に累進。旱害の際、虞允文の国用制度(南庫の蓄積が厚くなる一方で戸部の収入が削られる)が近年の財政不足の一因と指摘した。
- 給事中として、湯思退の子・張嶷の登用、裴良琮の階官落としなどを繳奏で退けた。広西の塩法改革について漕臣が商人の貲を没収する鈔法の弊を指摘し反対した。
- 刑部尚書、東宮僚属として孝宗から「安遇」の字を賜り梅花の詩に唱和するなど厚遇された。光宗受禅後、参知政事として孝宗の政を専守すること(風俗を正し財用を節し士気を振るい中道を執り民力を恤み将帥を選び人材を収め監司を択び法令を明らかにする)を疏で論じた。
宰相として
- 知樞密院事を経て紹熙4年(1193年)左丞相。祖宗の法度を専守し、人物を推薦し公論を広く採った。1年足らずで観文殿大学士知建康府に転じ、隆興府を判じてのち祠禄。
- 寧宗即位後、上疏で「今日の事は修身斉家結人心定規模を先とすべき」と論じた。紹興府を判じた際、些事も親ら親裁したが、「大体を崇んで細務を簡にするのが体」との意見に「私はそうしない」と応じた。
- 「十二時中、自らを欺かぬこと」を実践し、福州を判じる道中で病に罹り、少保致仕、享年66。少師を贈られ諡は文定、光宗廟庭に配享。文集200巻、詞業50巻がある。