宋史卷三百八十三 列傳第一百四十二 虞允文

虞允文(字は彬甫、隆州仁夀の人、?–1174年)は紹興23年(1153年)進士。完顔亮の南侵に際し采石の戦いで寡兵をもって金の大軍を破り、宋の危機を救った功臣。のち宰相となり四川の軍政改革にも尽力、忠肅と諡された。

年表(10件)

出自と初任

  • 虞允文は字を彬甫といい、隆州仁夀の人。父の祺は政和年間の進士で太常博士・潼川路転運判官を務めた。允文は6歳で九経を誦し、7歳で文をよくした。父の任により入官。母の喪では哀毁骨立し、7年間仕官を控えて父に付き添った。
  • 父の死後、紹興23年(1153年)に進士に及第。秦檜が政を握っていた頃、蜀の士人の多くが用いられずにいたが、檜の死後、高宗はこれらを登用しようとし、允文は召対で「君主は必ず天を畏れ、民を安んじ、祖宗に法るべき」と論じ、士風の弊も指摘した。四川の財賦科納の弊も極論した。

金主完顔亮の南侵と采石の戦い

  • 金主亮が汴京を修め南侵の意図を示す中、王倫は敵は恭順と報告し、湯思退は油断していた。允文は金が必ず盟約を破るとして防備を上疏。乾道賀正使として金に赴いた際、館伴との賓射で百発百中し驚かせ、運糧・造船の様子から南侵の準備を察知した。
  • 三衙管軍を宦官が管掌していたのを改めさせ、「昔秦檜が18年権を盗み、檜の死後三衙が近習と結んでいる」と諫めた。
  • 金使が淮南の地を求め将相大臣を出せと迫った際、朝議は戦を決す。允文は成閔の京湖制置使派遣を批判し、江池軍の運用を献策。
  • 完顔亮が渦口から淮水を渡り、劉錡・王権の両軍が敗走、両淮を失う中、允文は蕪湖に赴き李顕忠と王権の交代・犒師を命じられた。采石で王権軍の敗残兵が散り、顕忠は未到着という危機の中、允文自ら諸将を招き奮起させ、「金帛・告命はここにある」と鼓舞、時俊らが奮戦し、宋の水軍がわずか1万8千で金の40万の大軍を破った。焼き討ちで金船300隻を焼き、金兵を大敗させた。
  • 完顔亮が瓜洲へ移動すると、允文は李顕忠の軍を分けて京口を守らせ、楊存中の軍とも合流。金軍が瓜洲を攻めようとした際にも防備を固め、金主亮は臣下(完顔元宜ら)に殺害された。允文は「虞允文は忠義が天性から出ている、朕の裴度である」と孝宗(当時建王)から評された。

陝西経略と宰相としての内政

  • その後、両淮の措置を上疏したが用いられず、川陜宣諭使として蜀に赴任。呉璘と共に中原経略を議し、璘は鳳翔を進取し鞏州を回復した。しかし史浩の議により陝西放棄論が起こり、允文は繰り返し(前後15疏)反対を上疏したが容れられなかった。
  • 隆興元年(1163年)、史浩が既に陝西放棄を進めていたのに対し、允文は「今日戦うべき8つの理由がある」と主張。孝宗は史浩の誤りを認めた。
  • 湯思退が唐・鄧・海・泗の四州放棄を進めた際にも五度上疏して争ったが、思退の反対に遭い、允文は致仕を願い出た。二年後、金兵が再侵し思退は貶され、孝宗は允文の言を用いなかったことを悔いた。陳俊卿の推薦もあり端明殿学士同簽書枢密院事となる。
  • 乾道元年(1165年)、参知政事兼知枢密院事。金使の完顔仲が不敬な態度を取った際、斬刑を求めたが実行されず、銭端禮の玉帯事件に連座して罷免された。
  • 乾道3年(1167年)、呉璘の死後、四川宣撫使として蜀に赴任。軍政を最優先とし、軍の実数調査、老弱の淘汰による経費削減(緡銭400万の削減)、陝西弓箭手法の紹興制への統合、茶馬の川秦司分置などを行った。金洋興元からの帰正人2万人に官田を給し、蕃族との連携を図るなど蜀の統治を進めた。
  • 乾道5年(1169年)8月、右僕射同中書門下平章事兼枢密使となる。人材を三等に分けて記録する「材館録」を設け、洪适・汪応辰・胡銓・周必大・王十朋・趙汝愚・晁公武・李燾らを推薦した。
  • 陳俊卿と共に三衙の雑役を改め冗籍を淘汰。皇太子擁立問題では上疏を重ね、乾道7年(1171年)正月、皇第三子恭王惇(後の光宗)が皇太子に立てられた。
  • 侍衛馬軍司の牧地が臨安では狭いとして鎮江へ移すことを求めたが、後にこれが批判の種となった。胡銓の留任を求め、朱熹の推薦にも関与した。
  • 金使の完顔天錫が驕慢な態度をとった際、允文は皇帝が自ら殿へ戻るよう進言し、事なきを得た。乾道8年(1172年)2月、左丞相兼枢密使(僕射の名称変更後)となり、梁克家が右丞相に。曹勛の樞密任用に反対し、張説の枢密院事任命では王希吕を庇い梁克家と共に上の怒りを和らげた。

四川再赴任と晩年

  • 乾道8年(1172年)4月、御史蕭之敏の弾劾を受け一時待罪。孝宗・高宗ともに允文を庇った。諫官の人選(李彦頴・林光朝・王質)を提案するも用いられず、曽覿の縁故人事にも異議を唱えたが聞かれず、允文は辞任を求め、少保武安軍節度使四川宣撫使雍国公として蜀へ赴いた。
  • 孝宗と「河南で会う」約束を交わし、乾道9年(1173年)蜀に至って米の増給・馬政の改革(戸馬七条)などを実施したが、北界の反乱勢力との連携が金に露見し失敗。
  • 孝宗は「丙午の恥は共に雪ぐべし」「朕の功業は唐太宗に及ばず、富庶は漢の文景に及ばない」と語り、允文は恢復を約したが、進兵の期に至らぬまま淳熙元年(1174年)薨去。4年後、孝宗は「虞允文の淘汰の効果である」と軍の壮健さを評した。
  • 太傅を贈られ、諡は忠肅。允文は姿が雄偉で長身(六尺四寸)、慷慨磊落で大志があった。文学に長じ、晩年は将相を出入りし20年近く忠勤を尽くした。唐書・五代史に注し、詩文10巻、経筵春秋講義3巻、奏議22巻、内外志15巻を著した。子3人のうち剛簡が最も知られた。