宋史卷三百八十三 列傳第一百四十二 陳俊卿
陳俊卿(字は應求、興化の人、?–1186年、享年74)は紹興8年(1138年)進士。孝宗の王府教授を経て監察御史・宰相を歴任し、張浚を弁護し和議派と対峙、剛直な諫言で知られた文官。乾道年間に左相となり虞允文と共に朝政を主導、致仕後は正献と諡された。
年表(8件)
- 紹興8年1138年進士に及第し、泉州観察推官となった
- 隆興初年都督府に礼部侍郎参賛軍事として仕え、張浚の北伐に時期尚早と考えた
- 乾道元年1165年入朝し朋党の弊を極論、吏部侍郎同修国史となった
- 乾道4年10月1168年尚書右僕射同中書門下平章事兼枢密使となった
- 乾道5年正月1169年虞允文が枢密使となり、俊卿は左相となった
- 乾道6年1170年允文が陵寝の議を再上申した際、時期尚早と諫め、観文殿大学士帥福州として去った
- 淳熙2年1175年再び福州を治めた後、建康府知事兼江東安撫使に起用された
- 淳熙13年11月1186年薨去、享年74
出自と初任
- 陳俊卿は字を應求といい、興化の人。幼くして重々しく、みだりに物を言わず笑わなかった。父の喪では成人同様に礼を尽くした。紹興8年(1138年)、進士に及第し、泉州観察推官となり、職務に励んだ。同僚の宴会にはいつも欠席していた。
- ある日、郡中で火事が起き、知事の汪藻が見回ったところ、他の属官は酒宴の最中で、俊卿の輿丁もそれに紛れて出かけていた。俊卿は事情を隠さず、自分の落ち度として汪藻に謝った。汪藻は感服した。
- 任期が満ちた頃、秦檜が政権を握り、俊卿がこれに阿らないのを察して南外睦宗院教授に左遷し、次いで南劍州通判添差とした。着任前に秦檜が死去し、校書郎に召された。
- 孝宗がまだ普安郡王であった時、高宗は端正で重厚な人物を選んで輔導させようとし、俊卿を著作佐郎兼王府教授に任じた。王が蹴鞠を好むと、韓愈が張建封を諫めた文を誦して諷諫し、王はこれを受け入れた。
監察御史として
- 監察御史・殿中侍御史に累進し、「主君は衆論を兼ね聴くことを美とし、必ず至公を本とすべきであり、臣下は欺かぬことを忠とし、大体に達するべきである」と説いた。
- 韓仲通が秦檜の獄事に加担し無実の者を陥れたことを弾劾し、秦檜の一党が皆逐われる中で仲通だけが免れていたのを正した。また鎮江の劉寳が搾取に走り命令に背いて戍卒を分けなかったことも弾劾し、いずれも処罰させた。
- 湯思退が専権を振るう中、冬に雲もなく雷が鳴った異変を機に、宰相が天心・人望に背いていると論じ、思退を罷免させた。
- 金の侵攻の兆しが見える中、張浚への讒言(異心ありとの説)に対し、浚の忠義と人望の厚さを弁護する上疏をした。返答がないため、直接対上して力説し、数か月後に浚は建康守となった。
- 内侍の張去為が用兵を密かに妨げ、避敵策を進めていることを指摘し、軍法での処断を求めた。孝宗は「卿は仁者の勇と言うべきだ」と評した。
- 権兵部侍郎の時、金主完顔亮が淮水を渡ると、俊卿は浙西の水軍を整え、李寳による膠西の勝利につながった。亮の死後は淮東の砦を治め、流民を安撫した。
- 金の新主・完顔雍(世宗)が和議を求めた際、朝臣の多くが和議に傾く中、俊卿は「和戎は本来やむを得ぬ策であり、旧疆を得ても実利があるとは限らない。先に名分を正し国威を強くすることが先決」と論じ、将の選抜・練兵・屯田・減租の策を提案した。
張浚との北伐と江淮宣撫判官
- 孝宗即位後、「国のための要は人を用い、功に賞し罪に罰することにあり、それを行うには至公あるのみ」と説き、中書舎人に遷った。
- 張浚が閫外(軍事方面)を担う中、俊卿は忠義沈静で謀があるとして江淮宣撫判官兼権建康府事に任じられた。「呉璘が孤軍で深入りし、敵が全軍でこれに抗している今こそ、舟師を分けて山東を直接襲えば、敵は自ら退いて璘は関中を平定できる」と献策したが、和議派の主張により璘の撤兵が決まり、俊卿も召還された。
- 十事を建言(規模を定め、紀綱を振るい、風俗を励まし、賞罰を明らかにし、名器を重んじ、祖宗の法に遵い、無名の賦を蠲すなど)。
- 隆興初年、都督府が置かれ、俊卿は礼部侍郎参賛軍事となった。張浚の北伐に対し俊卿は時期尚早と考えたが、敵の糧秣集結の報を機に朝廷は出師を許可。まもなく邵宏淵の軍が符離で潰滅し、俊卿は揚州に退いて守った。和議派がこれを非難し、浚は罪を待ち、俊卿も連座を願い出て官二等を貶された。
- 諫臣の尹穡が湯思退に付き浚を都督から罷免し宣撫使として揚州を治めさせようとした際、俊卿は浚の重権を削ぎ死地に置くことの不当を強く訴えた。上は悟り浚を都督に復し宰相に召そうとしたが、結局思退・尹穡に排斥され、浚は江淮の視師に遣わされた。
- 俊卿も重ねて自責を上奏し、寳文閣待制知泉州、のち祠禄官となった。思退が失脚した後、太学の諸生が闕下に伏して俊卿の召還を願った。
乾道年間の諫諍
- 乾道元年(1165年)に入朝し、朋党の弊を極論。吏部侍郎同修国史となり、「人材は気節を主とすべきで、小過は許すべきだが、邪佞な者は才があっても厳しく見極めるべき」と論じた。
- 外戚出身の銭端禮が参政となり宰相の地位を窺うと、俊卿は上疏でこれを退けた。端禮が密使を送って懐柔しようとしたが応じず、翌日「本朝の家法では外戚を政に関わらせない」と孝宗に諫言した。上はこれを容れ、端禮は俊卿を恨んだ。
- 孝宗がなお蹴鞠や狩猟を好んでいた時、漢の桓帝・霊帝、唐の敬宗・穆宗、司馬相如の言を引いて諫め、上は喜び「卿を潜邸の頃から忠臣と知っていた」と評した。同知枢密院事となる。
- 曽覿・龍大淵が旧恩を頼み権勢を弄していたが、俊卿は彼らを公の場で相手にせず、洪邁が密かに漏らした人事情報を上に確認したところ、上は激怒しこの二人を宮中から追い出した。
- 金が誓書に基づき前に捕虜となった者の返還を求めた際、俊卿は「俘虜と逃亡者は別物であり、俘虜は既に多く帰しており、逃亡者を無理に送り返すべきではない」と主張。両淮の民が数万人も金へ亡命した事実も指摘し、和議を損なわぬよう慎重を求めた。
- 鎮江の軍帥・戚方が軍士を搾取していたのを弾劾し罷免させた。郊祀にあたり雷が鳴った異変で葉顒・魏杞が罷免された際、俊卿は参知政事となった。
- 四明で銀鉱が発見され宮中で密かに鍛冶させようとしたのを、帝王の大事を疎かにし有司の細事に走ることの危うさを説いて諫めた。
- 洪邁が奸険讒佞であるとして罷免を主張。福建の鈔塩を減じ、江西の和糴・広西の折米塩銭を罷め、諸道の未納金穀銭帛を巨万計で免除した。
- 曽覿の召還を上が望んだ際、「この二人が去って以来、天下は称賛している。今また召せば必ず人心を大きく失う」と諫めて阻止した。
- 殿前指揮使の王琪が両淮の城壁視察の際、和州教授の劉甄夫を推薦して召させようとしたのを、教官の人事に武官が関わるべきでないと指摘。揚州の増築工事について王琪が勅命を偽って伝えたことも暴き、削官・罷免に至らせた。
- 宮中の密旨が直接諸軍に下され宰相が関与しない慣行を正し、以後は百司が御筆の処分を必ず奏審してから行うよう改めさせた。
- 同知枢密院事の劉珙が対上で激しく諫争し忤旨となり左遷されそうになった際、俊卿は自らの罪として詔命を押しとどめ、劉珙の江西帥への転任という穏当な形に収めた。
左相として
- 乾道4年(1168年)10月、尚書右僕射同中書門下平章事兼枢密使となる。人材登用を己の任とし、廉退の士を挙げ奔競する者を抑えた。虞允文が四川宣撫の任にあった際その才を推薦し、乾道5年(1169年)正月、允文は枢密使、のち右相となり、俊卿は左相となった。
- 允文が陵寝返還を求める使者派遣を建議した際、俊卿は疏を上げて時期尚早と諫めた。上が騎射に凝り目を痛めた事件では、恢復への志ゆえの行為であると理解しつつも、智謀と信義による威嚇の方が有効であると諫めた。
- 曽覿の任地選定、樞密承旨張説の縁故人事の要求を拒み、吏部尚書の汪応辰が允文と意見が合わず辞任した際にも応辰の剛毅正直を弁護したが、聴かれず出された。以後、上の意向は允文に傾き、俊卿もしばしば辞任を求めた。
- 乾道6年(1170年)、允文が再び陵寝の議を上申した際、俊卿は「大事は万全を期すべきで、今しばらく国力の充実を待つべき」と諫め、観文殿大学士帥福州として去った。辞去にあたっても佞臣を遠ざけ賢者を親しみ政を修めるよう勧めた。
福州・建康時代と晩年
- 福州では寛厚な政を行い、盗賊の取締りを厳しくし海道を平穏に保った。転運判官の陳峴が鈔塩法への変更を建議した際、福建の塩法は淮浙と異なるとして反対し、実施を阻止した。
- 淳熙2年(1175年)、再び福州を治めた後、特進として建康府知事兼江東安撫使に起用され、対上で「将帥は公選によるべきで、賄賂で得た人事は害をなす」と諫言した。
- 建康を去って15年ぶりに戻った際、士大夫の風俗が権門への阿附へと大きく変質したことを憂え、直言した。上は今後そうした請託を断つと応じた。
- 少保判建康府に進み、8度にわたって致仕を願い出て、少師魏国公として致仕。淳熙13年(1186年)11月薨去、享年74。臨終に際し子らに「遺表には聖恩への感謝のみ記し、恩沢や諡樹碑を求めるな」と遺言した。上は嗟悼して朝を輟め、太保を贈り、諡は正献。
- 俊卿は孝友忠敬で、天資清厳、平生恂恂として朝廷では邪正を分かち権勢にも臆さなかった。汪応辰・李燾と親しく、朱熹を特に敬い、朱熹は俊卿の死に千里を厭わず弔問した。文集20巻がある。子5人のうち宓は学に志し、朱熹が墓誌銘を撰した。