宋史卷三百八十一 列傳第一百四十 程瑀

蔡京批判と使金

  • 程瑀、字は伯寓、饒州浮梁の人。臧氏の家に養子となり姑没後に本姓に復した。太学で首席評価を受け、校書郎から兵部員外郎として高麗使の送伴使を務め、船夫徴発の禁令違反を摘発したが逆に誣告され、潘良貴の再調査で正しさが証明された。
  • 靖康の三鎮割譲の議論で秦檜と共に使者を命じられ「割地を望まず」と奏したが聞き入れられず、燕山にまで赴いた。左正言として大臣の無為無策、祖宗の理想の形骸化、宦官の寵愛、姦悪の軽罰、冗員の温存、党与の私を鋭く批判した。
  • 李綱の両路宣撫使起用に賛意を示し、金の斡离不・粘罕の内部対立を分析して和議より謹慎した辺備を優先すべきと説いた。徐処仁・呉敏・唐恪らの罷免を求め、蔡京の罪を論じて呉敏の庇護疑惑を追及したが、これにより地方に左遷された。
  • 高宗即位後、司封員外郎・光禄少卿・国子司業を経て、脩政局参議として省費裕国強兵息民の14事を上奏した。李捧・崔増らの兵の再配置を献策し、呂頤浩・秦檜の役割分担を評価しつつ「誠実さこそが要」と説いた。
  • 権邦彦の樞密院任命に反対し、給事中として席益の登用を巡り呂頤浩と対立、しばしば地方転出と召還を繰り返した。兵部侍郎兼侍読として光武帝の故事を引き「英俊は朝に満ちている」と激励、翊善として金への防備強化と省費を説き「十年」の目標を帝に念押しした。
  • 兵部尚書に至ったが、秦檜の和議路線に異を唱え続けて忌まれ、知信州として大水害の際に檜から皮肉を言われ、病と称して江州太平興国宮に退いた。李光との書簡往来を理由に降格され66歳で卒した。
  • 論語の「弋不射宿」(孔子が寝ている鳥を射なかった故事)を引いて陰謀を戒める説を著し、周公の故事も引用したため檜に「己を譏る」と誤解され、序を書いた洪興祖と版木を刻んだ魏安行が処罰された。檜の死後、子孫はようやく罪を免れた。奏議6巻がある。