宋史卷三百八十一 列傳第一百四十 黄龜年

秦檜の初期弾劾

  • 黄龜年、字は徳卲、福州永福の人。崇寧5年(1106年)進士、河北西路提挙学士として呂頤浩に才を認められ太常博士、靖康元年(1126年)吏部員外郎・監察御史・尚書左司員外郎中書門下検正諸房公事、脩政局検討官として通進司の監察強化を建言した。
  • 呂頤浩の再相時、朱勝非を京祠に導く動きを牽制し、中書舎人胡安国の署名拒否を回避するため自ら書行した。殿中侍御史として王倫の帰還を機に、秦檜が和議を主導し恢復論を阻んでいることを弾劾する長文の上奏を三度行い、「忠と言えば欺君に勝る罪はなく、公と言えば私に勝る罪はない」と論じ、檜の党王㬇・王昞・王守道と共に罷免に追い込んだ。
  • 檜が観文殿大学士提挙江州太平観として留まったことに対し、なお「渠魁を放置してはならぬ」と再上疏、さらに檜の「詭言偽行」を糾弾する三度目の上疏を行い、ついに檜の職を奪った。
  • 太常少卿から起居舎人・中書舎人兼給事中・侍御史に至ったが、常同に大臣との内通・諸将との結託を弾劾され罷免、詹大方の弾劾で本貫に居住とされ63歳で卒した。
  • 若い頃、永福の簿李朝旌に才を見込まれ娘を娶ることを約されたが、登第時には既に朝旌が死去し家貧しかったにもかかわらず約束を守って娶ったことが義とされた。子の衡は湖南提挙に至った。