出自と経世の論
- 胡交脩、字は已楙。常州晋陵の人。崇寧2年進士、泰州推官、詞学兼茂科。給事中翟汝文が知貢挙で「私の及ばぬところ」と評し首選とした。編類国朝会要所検閲文字、太常博士、都官郎、祠部、左司官、起居舎人、起居郎。昭慈太后垂簾聴政期に右文殿修撰知湖州。
- 建炎初め、中書舎人への召に応じず徽猷閣待制提挙洞霄宮に落ちる。建炎3年、再召され給事中直学士院兼侍講として天下の大勢を論じ、淮南・湖広・江浙・秦蜀の各地の弱点(藩籬なき淮南、盗賊蔓延の湖広、根本未立の江浙、連携なき秦蜀)を指摘し、大臣による政事修明・将帥選抜・卒乗補充・国勢強化を求めた。
財政・法制論と晩年
- 弭盗・保民・豊財・裕国・彊兵禦戎の詔問に対し、盗賊は生活困窮の産物であり寛大な詔と生活支援で招撫すべきと論じ、翟興・董平の屯田自給の先例を挙げた。李成の反乱に対する親征論を「勝てば不武、負ければ天下の笑いもの」として退けた。
- 汀州寧化県の大辟(死刑)判決10人が実は無実であった事件を摘発し県令の処罰を求めた。江東の留獄逮捕者600人が徒に瘐死するのを防ぐため、明白な罪状のみで速やかに処罰する方針を建議、詔してこれに従わせた。
- 四川交子の全国流通案に対し、崇寧大銭の失敗(大小二等の混在による姦民の盗鋳)を引き強く反対、時の朝議を覆した逸話。蜀帥の後任に自らの従子胡世将を推薦、世将は四川安撫制置使として活躍。世将のもとでの陸運の負担軽減(3月〜9月のみ正兵駐留、他は他州で就糧)を献策、詔して呉玠にこれを実施させた。
- 徽宗配享功臣の議で韓忠彦(建中靖国の宰相、当時「小元祐」と称された)の顕彰に賛同。京西陝右の科挙制度整備を提案。端明殿学士知合州にて数ヶ月で卒。簡重寡言、文は琢刻を事とせず。祖父胡宿・父胡宗愈から胡交脩・世将まで一門で学士に三度入ったのは中興以後初めての例で、「世絲綸集」として自らその栄誉を編纂した。継母への孝、弟への友愛でも知られた。