出自と朝廷での言論
- 劉一止、字は行簡。湖州帰安の人。7歳で文を作った。太学が八行での推薦を勧めた際「行いは士の常であり誇るべきでない」と断り進士に及第。越州教授、参知政事李邴の推薦で詳定一司勑令所刪定官。紹興初め、館職試験で「事が成らないのは為さないからで、難しさゆえではない」と論じ高宗の賞賛を得るも、執政への抜擢は望まず祕書省校書郎にとどまった。
- 両浙類試の考官として、通時務な人材を張九成と見抜き衆を服させた。監察御史として、天下の治は多くの君子が成し一人の小人が敗るものと論じ、置司による講究策の実効性を疑問視した。時の情勢下、有司が「吏の省記」を法とする慣行の弊害(吏の恣意的な運用)を指摘し、省記の刋定頒行を建議、実現した。
修政局批判と外戚人事への抵抗
- 秦檜が修政局の設置を提案した際、周の宣王の「内は政事を修め外は攘夷の政を行う」との対比で、当時の修政局が簿書・獄訟・官吏遷降・土木営建に留まり本質的な急務でないと批判。人材登用の急速化、銓選を経ない仕官、朝士の外任忌避を批判し、劉晏の財政法に倣った瀕江の司の設置と義倉の増設を建議、多くが採用された。
- 起居郎として、六察から二史に昇った先例が祖宗時代には張澂・李棁のみであったことを述べ、堂吏・宦官の弊、執政の私党形成を痛烈に批判し翌日罷免、台州崇道観提挙。
- 給事中として、莫将(和議推進派)の異例の抜擢に反対し連座を拒否。張邦昌に仕えた徐偉逹の知池州就任に反対、孟忠厚の郡守就任にも「后族が例外なく郡を得れば他に示しがつかない」と反対。汪伯彦の待遇(元帥府旧人としての執政級給与)にも「誤国の罪は天下周知」と反対し、いずれも罷免させた。御史中丞廖剛が「台の言論はみな劉君に先んじられた」と評したという。
晩年
- 100余日の在任中、繳奏を続けたことで当路者に忌まれ罷免。李光への同調を疑われ提挙江州太平観、8年後致仕。秦檜死後、召還されるが病により拝せず、直学士致仕。享年83で卒。
- 冲澹寡欲な人柄で、子に「私の生涯は自然に任せ機械(策略)を用いなかったからこそ心の平安を得た」と教えた。制誥の文は坦明で体を成し、一日数十通を難なく仕上げた。顔真卿の孫特を称える制文が高く評価され、詩は呂本中・陳与義に「人間界のものではない」と評された。類藁50巻。子は巒・嶅、従弟に寧止。
劉寧止――淮防と忠節
- 劉寧止、字は無虞。宣和進士甲科。太学録校書郎。建炎初め浙西安撫大使司参議、両浙転運判官。苗劉の乱に際し毗陵から京口・金陵に馳せ参じ呂頤浩・劉光世に忠義を尽くすことを誓い、軍需を整え勤王に貢献。左司郎官、右司郎官を歴任。
- 給事中として梁揚祖の発運使就任を再度論駁。添差江淮荊湖制置発運副使として隆祐太后の江西幸に扈従。両浙転運副使、勤王の功で直龍図閣。江淮等路坑冶鋳銭を主管し知鎮江府沿江安撫使として、京口が浙西の門戸であるとして常州江陰軍・崑山・常熟二県を管轄下に統合すべきと献策。
- 権戸部侍郎として三宣撫司の銭糧を総領、張浚都督府の属官として吏部侍郎、徽猷閣直学士知秀州を経て顕謨閣提挙太平観にて卒。文名があり慷慨に論事を好み、王安石日録の禁止、賢良方正科の復活、司馬光の十科薦士法の倣用、唐制に倣った宰執論事の在り方などを上疏した。呉頤浩は勤王の功を称賛した。寧止・一止・岑は従兄弟で、高宗はそれぞれ「寧止は忠、一止は清、岑は敏」と評した。教忠堂類藁10巻がある。