宋史卷三百七十八 列傳第一百三十七 沈晦

出自と金軍への使者経験

  • 沈晦、字は元用。銭塘の人。翰林学士沈遘の孫。宣和年間進士廷対第一。金軍の汴京攻囲時、給事中を仮り粛王枢に従い斡離不の陣中に人質として赴き、金軍が再攻した際にも同行し南下、京城陥落・張邦昌の偽立の際に金軍から馮澥らの帰還を求め成功させた。給事中に復す。
  • 高宗即位後、言者に「金営での使いは苦難でも封駁の職には不適」と論じられ集英殿修撰知信州に転出。中書舎人への召命に対し侍御史張守が布衣時代の言動を弾劾したが、高宗は「金営での慷慨な発言を細行として咎めるべきでない」と却下、召命は結局中止された。
  • 知明州・知処州・知婺州を歴任。盗賊成臯の侵攻に対し、教授孫邦策の民兵で応戦するも大敗し邦策を斬ろうとしたが釈放した。防遏使傅崧卿が単騎で説得し成臯を降伏させた。徽猷閣待制、便宜措置の濫用で降格、宣州・建康府知事を経て御史常同の弾劾で罷免。

淮西での軍事構想と晩年

  • 紹興4年、知鎮江府両浙西路安撫使として、沿江5郡(鎮江・建康・太平・池・鄂)にそれぞれ1〜2万の兵を配し民田を官田と交換して財源とし、敵の渡江を困難にする防衛構想を献策。趙鼎はその議論を「激昂」と評したが高宗は「言葉は壮んだが胆志は怯えている、実行を見て評価する」と応じた。
  • 韓世忠が鎮江に駐屯していたため沈晦の構想は実現せず、劉麟の侵攻に際し張俊の援兵を促す上奏を行った。世忠に疎まれ洞霄宮提挙、広西経略兼知静江府として、蛮酋莫公晟の帰附と離反、辺境の再安定化に成功。歳ごとの馬買(3000匹)で高い実績を上げた。徽猷閣直学士、知衢州、知潭州を経て太平興国宮提挙にて卒。膽気過人だが法度に必ずしも従わず、貧しかった時期の言行に人の批判もあったが、当官の才能は否定されなかったとされる。