宋史卷三百七十六 列傳第一百三十五 呂本中

出自と学統

  • 呂本中、字は居仁。元祐宰相呂公著の曾孫、呂好問の子。幼くして聡敏で公著に愛された。公著の薨去に際し、宣仁太后・哲宗が臨奠した際、諸童穉の中で本中だけが宣仁太后に頭を撫でられ「親に孝、君に忠」と励まされたという。祖父呂希哲は程頤に師事し、本中も楊時・游酢・尹焞の三家に学び疑義を安易に同調しなかった。
  • 公著の遺表の恩で承務郎、紹聖の党事で連座。宣和6年枢密院編修官、靖康改元で職方員外郎。父の喪に服し祠部員外郎。紹興6年、進士出身を特賜され起居舎人兼権中書舎人。

中書舎人としての言論

  • 内侍李琮の失料歴を高宗が特別に補填しようとした際、「宮中と府中は一体であるべき」として繳還し、上は「今後意見あれば直ちに言うように」と諭した。階州草場苗互の贓罪について黥(入れ墨刑)が用いられた事例を巡り、遠地の枉濫が把握しにくいことを危惧し、慎重な適用を求めた。
  • 高宗が建康に幸した際、恢復事業の先立つべき順序(人材・民隠・法度・刑政・直言の路、その後に練兵謀帥)を献策。荊南・九江・鄂渚など長江要地への重臣配置を提案。内侍鄭諶の兵官復帰に反対し、賢士の未用を批判。
  • 中書舎人・侍講を歴任、金の通和交渉に際し使者への接待は儉約を旨とすべきと論じた。かつて秦檜と親しかったが、檜の私的な人事案を封還して従わなかった。趙鼎の哲宗実録編纂完了に際し、「晋楚の成を合するは王を尊び覇を賎しむに若かず、牛李の党を散ずるは明を是とし非を去るに若かず」との制文を起草したことで秦檜の激怒を招き(趙鼎の風旨を受け和議破綻の際の保身策を図ったと讒言された)、御史蕭振の弾劾で罷免。提挙太平観にて卒。
  • 東莱先生と称され、諡は文清。詩集20巻(黄庭堅・陳師道の句法を得た)、春秋解10巻、童蒙訓3巻、師友淵源録5巻が世に伝わった。

史論

  • 「君子なくして国が成り立つことはない」というが、紹興の世は呂頤浩・秦檜が相位にあり、君子がいてもその忠を尽くせなかった。宋が中原恢復を果たせなかったのは天命とも言えるが、人事の問題でもあろう。常同・張致遠・薛徽言・陳淵・魏矼・潘良貴・呂本中はいずれも経邦の才を持ち、その風節は世を励ますに足りたが、みな議論が合わず祠に退き国を去った。永く嘆くべきことである。