出自と朝廷での言動
- 滕康、字は子済。応天府宋城の人。崇寧5年進士、詞学兼茂科にも及第。秘書省正字から起居舍人・権給事中を経て靖康2年、元帥府で高宗の勧進の儀礼を担う。太常少卿として登極礼儀を定めた。
- 顕謨閣学士孟忠厚が父の恩により減年で昇進しようとした際、太后の姪である忠厚が母后の親族として侍従になるのは太宗以来の慣例に反すると封還した。後軍統制韓世忠が部下の不始末で贖金に処された際、罰が軽すぎると批判、韓世忠は一官降格・知江州となった。
- 陳彦文の守城功に関する劉光世の上奏が前後矛盾していると閣下に留め置いた際、宰相の圧力にも屈せず論争を続け、宰相の恨みを買った。布衣の省試答案の不合式を巡る論争でも諫官李処遯に弾劾され、集英殿修撰提挙杭州洞霄宮に落ちた。
苗劉の乱前後と晩年
- 再び中書舍人に召され、日食・逆臣の予兆を見逃した朝廷の怠慢を批判し、建炎以来の詔書と実際の政治の乖離を指摘、上は「諫臣の風あり」と褒め左諫議大夫に抜擢、まもなく翰林学士、端明殿学士同簽書枢密院事となった。
- 建炎3年、呂頤浩が武昌への遷幸を議論し、さらに中原を棄てて東南に居民を移す議に対し、滕康は張守とともに強く反対し高宗を思いとどまらせた。太后が神主を奉じて江西に赴く際、李邴が権知三省枢密院事を辞したため滕康がこれを代行。劉光世の江防不備により金軍が渡河し、滕康らは太后を奉じて虔州に急行した。殿中侍御史張延寿にこれを弾劾され、秘書少監分司南京永州居住に落ちた。のち紹興2年9月、48歳で卒。8年に龍図閣学士を追復。文集20巻がある。