出自と正論
- 呂好問、字は舜徒、侍講呂希哲の子。蔭により補官、崇寧初年の党禁で元祐子弟として廃され、東嶽廟司・揚州儀曹などを転々とした。蔡卞が善類に取り入ろうとして好問に特別な待遇を示したが、好問は礼を持して距離を保った。
- 靖康元年、左司諫・諫議大夫を経て御史中丞に抜擢され、欽宗は「卿は元祐子孫、朕は特に卿を用いて天下に朕の意向を示す」と語った。徽宗の内禅・党禁解除・新法廃止の詔旨の完全実施を求め、太上皇の求治の意が半年経っても徹底しないことを批判した。
- 蔡京の過悪を挙げ海外への流罪を求め、王安石の王爵剥奪と神宗配享の廃止、江公望・張廷堅・任伯雨・龔夬らの名誉回復を建言、青苗の令の撤廃と元符年間の言論弾圧の被害者の救済を求める疏を十回にわたり上げた。
金軍来襲時の対応
- 金軍撤退後、大臣が武備を怠る中、好問は「金人は今回の勝利で中国を軽んじ、必ず秋冬に大挙再来する」と警告したが施策は進まなかった。金が真定・中山を陥すと、好問は臺属を率いて畏懦誤国の大臣を弾劾し、知袁州に左遷された。欽宗はその忠を憫れみ吏部侍郎に遷し、金軍が都城に迫ると兵部尚書に進めた。
- 都城陥落時、好問は帝が楼上から民衆を諭す場に随行。衛士長の蒋宣が乗輿を脅迫しようとする混乱の中、好問は孫傅・梅執礼とともに「国事がここに至ったのは宰相が姦臣を信任し直言を用いなかったため」と抗声で述べ、蒋宣を説得して鎮めた。
張邦昌への諫言と高宗即位
- 金人が張邦昌を擁立した際、好問は事務官として仕えつつ「相公は本当に立とうとするのか、それとも敵意を塞ぐための一時の方便か」と問い、天命人心が大元帥(康王)にあること、女真が去れば邦昌の地位は保てないことを説き、政を還すよう勧めた。門下省の実務にあたりながらも、文書には靖康二年の年号を用い続けた。
- 呉幵・莫儔が邦昌に金使を正殿で迎えさせようとした際、好問は宮省の吏がこれを見れば動揺すると諫めて阻止した。王時雍の大赦の議にも「城壁の外は我が地でない、誰を赦すのか」と反対、金の圧力による五千騎での康王急襲計画を察知すると康王に書を送って警告した。
- 邦昌に対し「天命人心は大元帥にある、相公が先に推戴すれば功は誰よりも大きい、機を逃せば他人に義を唱えられ悔いても遅い」と説き、邦昌は伝国璽を大元帥府に送る決断をした。金軍が兵を残して邦昌を衛ろうとした際も、好問は「南北の風土は異なり北兵は不慣れで安んじられまい」と断り、金軍撤退後、大元帥府への勧進の使いを促し、元祐太后の垂簾を請い、邦昌は太宰に戻った。
高宗朝での活動と晩年
- 太后は好問を高宗のもとへ遣わし、高宗は「宗廟が全うされたのは卿の力」と労った。尚書右丞に任じられ、丞相の李綱が囲城中の群臣の不節を悉く罪しようとした際、好問は「王業艱難の折、峻法で臨めば恐懼する者が多くなる」と寛容を説いた。
- 侍御史の王賔が好問の偽命汚染を弾劾したが、高宗は「邦昌僣号の初め、好問は密使を送り京師の内外の情勢を伝え、金軍撤退後も勧進の使いを送った、その心跡は他と異なる」と擁護した。好問自身は「邦昌僣号の時、閉門潔身するのは容易だったが、世々国恩を受けた身ゆえ賢者の責めを冒して囲城の中から書を送った」と述べ、去就を求めた。
- 資政殿学士知宣州提挙洞霄宮に転じ、東莱郡侯に封ぜられ、桂州に避地して卒去。子は本中・揆中・弸中・用中・忱中、孫に祖讓・祖儉があり、本中・祖讓・祖儉には別伝がある。
史論
- 朱勝非・呂頤浩は苗劉の変に処して、あるいは智を用いて婉曲に、あるいは威を奮って震撼させ、その復辟討賊の功は語るに値する。しかし李綱・趙鼎という当世の賢者を、勝非・頤浩は氷炭のごとく見なした。その内心にあったものは何であったか。
- 范宗尹は張邦昌の偽命を汚すことを忍びながら李綱を「震主の威」と誣告した、その是非への見識の乱れは甚だしい。范致虚は権臣に佞附し、既に大義を失っていたその上、勤王の軍を軽率に率い謀略に欠け、敗北に至ったのも当然である。
- 呂好問は艱難の際に処した経緯こそ范宗尹と同様だが、己を屈して事に就きながらも興復を図る心を持ち続けた点は、朱勝非が苗劉の変に処した態度に通じるものがあり、その心は諒とすべきである。