宋史卷三百五十七 列傳第一百十六 譚世勣

生涯

  • 字は彦成。潭州長沙の人。進士及第、郴州教授として王安石学の流行に懐疑的な態度(「学説が多く変わるのは不変の理がない証拠」)を貫く。詞学兼茂科にも合格し祕書省正字。
  • 蔡京の子攸が書局を率いる中、同僚が阿附する中で世勣は独り直廬に籠り書を続け、梁師成の使者との交際も謝絶、六年間昇進せず、京罷相後ようやく司門員外郎、三年後吏部に遷るが京再相で疎まれ太平宮提点に落とされる。
  • 恩蔭による任子制度の不正な緩和要求を拒み成法を守る、少府監から中書舎人に抜擢、命令の慎重な発布・名器の尊重・言路の拡大・賜与の抑制・国用の正常化などを上奏。
  • 徽猷閣待制として婺州知事の命が下るが留任、徽宗禅位・東幸に伴い李熙靖と共に副執政として奉迎、龍徳宮主管として宣仁太后の国史における誹謗の是正、瑶華(元祐皇后)の復位、神祖の太享への富弼配食、王安石配祀の撤廃などを実現。
  • 彗星出現を「四夷衰退の兆」とする大臣の解釈に対し「修徳をもって天に応ずべき」と反論、給事中兼侍読、内侍の殿門での喧嘩を贖罪で済ませようとする決定に反対、童貫らの初期の小悪を放置すれば大患になると警告。
  • 何㮚の四道都総管制構想(外郡を四分割し権限集中)に対し「天下を四人に分けて三畿がわずか十六県では尾大不掉の懼れがある」と批判、禮部侍郎に転じるが不興を買う。
  • 金軍南下に対し「守辺が上策、河を守り京畿を固めるのが中策、江淮への巡幸が下策」と論じ、大将秦元の京畿保甲配置を建議、孫傅の賛同を得るが何㮚の反対で阻まれる。
  • 張邦昌の僭位時、李熙靖と共に病と称して出仕を拒否し節を守り、憂憤のうちに五十四歳で没、建炎初にその節義を褒められ端明殿学士を贈られた。