宋史卷三百五十七 列傳第一百十六 王雲

生涯

  • 字は子飛。澤州の人。父獻可は英州刺史・瀘州知事、黄庭堅の涪州流謫時に厚遇し評判を得た。雲は進士及第、高麗使節に随行し「鶏林志」を撰進、祕書省校書郎・簡州知事・陝西転運副使を歴任。
  • 宣和中、童貫の宣撫幕から兵部員外郎・起居舎人・中書舎人、靖康元年給事中として斡离不軍への使者を務め三鎮割譲の和議に関与、金の内部対立(黏罕と余覩の不和)を伝えるが執政に信じられず徽猷閣待制として唐州知事に左遷。
  • 太原陥落後、刑部尚書として再度使者となり三鎮の賦入額を交渉、真定で従吏李裕を先に帰し、金が五輅・尊号・康王の来訪を求めていると報告、欽宗はこれを容れ康王・馮澥の派遣を決定するが車輅は途中で拒否され雲も帰還、馮澥に「誕妄誤国」と非難される。
  • 情勢の急変(金が三鎮を強く要求し得られねば汴京進撃)を報告、康王の派遣を推進し「百口を以て保証する」と述べ資政殿学士として副使に随行。
  • 磁州・相州で清野策(近郊の民家撤去・穀物の城内搬入)を実施したことで民の怨みを買い、宗澤との確執もあり、磁州で嘉応神祠参拝中、民衆から「粛王も金に抑留された、王は北行すべきでない」と諫められる中、雲を「清野の姦賊」と罵倒、雲の笥から風眩疾用の頭巾が見つかり「金の間者」との疑いを深めさせ民衆に殺害される。
  • 康王はこの事件で北行を中止し相州に戻ったため、議者は「雲が死ななければ康王は北へ行っていた」と天命論を唱えた。建炎初、観文殿学士を贈られる。兄の霽は謀議司詳議官として蔡京の罪を告発し海島に流されたが、欽宗により官職を回復、种師中の下で戦死。