宋史卷三百五十七 列傳第一百十六 李熙靖

生涯

  • 字は子安。常州晉陵の人。唐の李徳裕の九世孫。祖の均、父の公弼はともに進士、公弼は崇寧初潞州通判として三舎法反対を弾劾され死去。
  • 熙靖は進士及第、詞学兼茂科にも合格、辟雍録から太学正・博士、父の老齢を理由に淮東学事提挙を求めるが、賄賂で職を奪おうとした臧祐之の不正を暴かず黙認する高潔さを見せ、宰相に賢者と評され兵部員外郎に留任。
  • 王黼が太宰として応奉司・経撫房を専断したことを批判、五人の同僚が禁従に躍進する中、四年間都水丞に留め置かれ職務怠慢の責を転嫁されるが執政の弁護で太常少卿に留まり、黼罷免後に中書舎人。蔡攸に嫌われ拱州知事に出されるが二か月で召還され、燕山平定後の警戒を説く上奏で徽宗の称賛を受ける。
  • 靖康初、譚世勣と共に龍徳宮(道君太上皇宮)に仕え顕謨閣待制・醴泉観提挙、道君の信任篤く内禅の真相(呉敏の功と見えるが実は自分の意向であったという道君の告白)を打ち明けられる逸話。
  • 呉敏に忌まれ処罰されるが、張邦昌の偽命を拒絶し憂憤のうちに食を断ち、王維の詩句「百官何日再朝天」を書して五十三歳で没、譚世勣と共に端明殿学士を贈られた。