生涯
- 字は徳符。雍丘の人。父毗が穎州に移り陽翟の人となる。進士及第、鳳州司戸参軍・筠州推官。徽宗初、日食による求言に応じ、諫言の激切さの必要性・讒言の危険性を説く長文の上疏を提出。
- 司馬光と章惇の評価が朝廷内外で正反対であることを取り上げ、姦人の定義(時流に乗じて富貴を盗む、賄賂と密通、奇技淫巧で君主を惑わす、賞罰を私する、正論を弾圧する等)を列挙し、章惇にこそこれらが当てはまると論難、「大惇小惇殃及子孫」という京師の俗謡(惇と御史中丞安惇を指す)を引用。
- 鄒浩の言事による処罰を例に朝廷の言論封殺を批判、日食の天変を政治の誤りに関連付け、諸臣の沈黙を憂える。帝はこれを善しとし相州教授に任命するが、後に蔡京が上書人の再審査で鶠を邪等とし官を免じる。
- 十余年、郟城に隠棲し婆娑園を営み尊敬を集める。宣和六年、寧化軍通判として復帰、欽宗即位で殿中侍御史・右正言に進み、蔡京一門による人事独占(「一門生死則一門生用」)を糾弾、諫議大夫馮澥の「士無異論は太学の盛んなるなり」との欺瞞を反駁、王安石の三経義による思想統制・蔡京の学校統制(蘇軾・黄庭堅・范鎮・沈括の著作収蔵禁止)を批判。
- 仁宗・英宗が敦朴敢言の士を登用したのに対し王安石が「流俗」として排斥し司馬光が復権させた経緯、章惇・蔡京の紹述路線による道徳・風俗・財政・人材・辺境政策すべての破綻を論じ、蔡京の姦邪の計略は王莽を凌ぐほどであるとし、朋党の害を斬るべきと極論。
- 議論が重んじられる中、痙攣性の病を得て三度の辞職願を出すが慰留され、龍図閣直学士として嵩山崇福宮を主管する命が下るとともに卒。文才に優れ、詩は清峭雄深と評され、遺文は婿の衛昻により三十巻に編纂された。