宋史卷三百五十六 列傳第一百十五 宋喬年

生涯

  • 字は仙民。宰相宋庠の孫。父の充国は学問に励むが、宰相の子と見なされ科挙を控えたが仁宗の命で及第、太常礼院知事として英宗祔廟の議論で桃祧の議に対し感生帝配祀の始祖説を建言。
  • 東西府に上箴を献じ大臣の不興を買い、廟饗の際に妻が妾を寺に遣わしたことで自劾し禮院を辞し致仕。性は剛介孝行、微物も家廟に先に薦めたと伝わる。
  • 喬年:父の蔭により市易務監となるが娼女との私通・私役吏事件で官を落とされ二十年不遇。娘が蔡京の子攸に嫁ぎ、京が執政すると起用、崇寧中開封県鎮・府界常平提挙、京西北路刑獄提点、進士第を賜り集賢殿修撰・京畿転運副使・都転運使・開封尹・龍図閣学士として河南府を知る。
  • 京の罷相時、諫議大夫毛注・御史中丞吳執中に弾劾され保静軍節度副使蘄州安置に貶謫、京の復相で旧官に復し陳州知事、政和三年六十七歳で没、諡忠文。
  • 子の昇:字は景裕。崇寧初、譙県尉から勅令删定官を経て殿中少監、父子で蔡京一門に依存し士大夫を圧迫、密かに諫官と交わり、蔡居厚を鷹犬として使い喬年を貶めさせた(喬年貶謫の際、昇も少府少監分司南京に左遷)。応天府知事を経て京西都転運使として西宮の修葺・三山新河の改修を行い顕謨閣学士に至る。
  • 徽宗の諸陵謁見に備え宮城の大改修(周囲十六里、廊屋四百四十間)を実施、髹漆に灰人骨を混ぜる不正な調達(洛城外二十里の古墳を暴掘)を行い正議大夫殿中監に昇進、三陵の泄水坑澗の補修(役四百九十万工)を命じられたが未完のまま卒、金紫光禄大夫延康殿学士・諡恭敏を贈られた。