生涯
- 字は子権。建州松溪の人。嘉祐進士、同門の婿呂恵卿が権勢を誇る中も阿附せず、三十余年地方官を歴任後、河南常平提挙、河東・淮南・江東転運判官、広東刑獄提点を経て庫部・吏部右司郎中、大観初兵部侍郎に抜擢。
- 御史中丞として開封府・内侍省・京畿・秦鳳の違法な請託を摘発、開封府の裁決・大理の獄・将作の営繕・榷貨の収入などを「功績」と偽って一年に五、六度昇進する慣例を批判し改革させる。
- 鄭居中の枢密院知事就任に外戚の政治介入として反対、蔡京は執中を利用して張康国を排除しようとしたが、執中は先に劉炳兄弟・宋喬年父子(京の客)を弾劾し、帝から公正と評される。
- 果たして京への弾劾状が届くと帝は怒り執中を滁州・越州知事に落とすが、石公弼の弁護で待制降格に留まる。揚州知事から河南府知事に召還される途中、中丞に復帰、蔡京の星変による失脚を巡り「大臣の進退には礼を尽くすべき」と論じ京の重罰を回避させる。
- 開梓䕫州への流刑者の名誉回復、八行挙(推薦制度)の実効性を疑問視し太学での再審査を建議、礼部尚書、張商英罷免に伴い自身も郭天信人脈として批判され枢密直学士として越州知事、のち待制降格、家で卒。