宋史卷三百五十六 列傳第一百十五 錢遹

生涯

  • 字は徳循。婺州浦江の人。進士甲科、洪州推官・越州通判・校書郎を経て徽宗即位、殿中侍御史に抜擢。中丞豊稷の反対にもかかわらず湖北常平提挙、崇寧初、都官員外郎・殿中侍御史として曾布を元祐姦党擁護と弾劾、侍御史・中丞に累進。
  • 元符末の孟后復位・劉后廃止事件を巡り、韓忠彦・曾布・李清臣・黄履および曾肇・豊稷・陳瓘・龔夬らを貶め、石豫・左膚と共に元祐皇后(孟后)の名分問題を執拗に論じ、「元祐皇后」呼称の不正当性を礼制・先例・世論の観点から詳細に論証し、廃位を再実現させた。
  • 元符皇后は崇恩太后に格下げ。市井の直言者馮澥の建言も利用し崇恩太后廃位を主導、蔡京の青唐攻略策を助け、元祐党籍編纂では漏れを問題視し給事中劉逵に反駁され戸部侍郎に左遷、のち工部尚書兼侍読、穎昌府知事、罪を疎され滁州に落とされるが復権を繰り返し工部尚書に至る。
  • 屏居十五年後、方臘の乱で婺州が陥落した際、蘭渓に逃れるも賊に殺され七十二歳。

石豫(附)

  • 寧陵の人。進士及第、安惇の推挙で監察御史となり左膚と共に鄒浩の獄を苛酷に鞫問、広東の鍾正甫を使い浩を死に至らしめようとした。辺事論で中国と四夷の関係を「君臣・賓客」に喩え国辱と評され淮南転運判官に左遷。
  • 陳瓘の鄒浩事件追論に連座し亳州通判に降格、崇寧元年殿中侍御史に復帰、錢遹と共に元祐皇后廃位を主導、景霊宮の元祐諸臣画像の撤去を求め、軍器監事件で蔡碩の告発により陳州・鄧州知事に落とされる。
  • 工部侍郎・戸部侍郎兼侍読を経て調度不足で降格、祖母の喪により去官、服喪明け前に卒。

左膚(附)

  • 廬州の人。安惇の推挙で御史、経歴は石豫とほぼ同じ。侍御史から刑部・兵部・戸部の三尚書を歴任、枢密直学士として河南府・永興軍を知り卒。